様々な法により追求される欧州の人権保障から日本が学ぶべきこと

法学部国際関係法学科
准教授 
東 史彦

基本的人権の尊重は、日本国憲法の三つの柱の一つです。しかし、それは努力義務に過ぎないただのスローガンになってはいないかと、法学部の東史彦准教授は問いかけます。人権意識の高い欧州の法から、私たちが学ぶべきこととは?

私の研究分野は、欧州のイタリアの法です。人権に注目し、EU法、イタリア法、欧州人権条約の関係を研究しています。

EU法とはEU(欧州連合)の法、イタリア法はEUの加盟国としてのイタリアの法です。EU加盟国は、自国法と並行してEU法も順守する必要があります。欧州人権条約は、イタリアを含む欧州の46カ国が締約している人権保障のための条約です。

この三つはそれぞれが異なる法秩序であるため、異なる見解を示すことがあります。それは、なぜか。判決を考察し研究を進めています。

国内の法と欧州の法を調整し、よりよい人権保障を

一例として、信教の自由に関する裁判例を紹介します。

イタリアの公立学校では古い勅令により各教室に十字架が飾られています。それが、非キリスト教徒の信教の自由の侵害であるという訴えがありました。イタリア国内憲法では信教の自由の侵害はないとされましたが、欧州人権裁判所では、一審で欧州人権条約上の信教の自由の侵害であると判断されました。イタリアは上訴し、結果的に上級審で「信教の自由の侵害はない」という判決に落ち着きました。

このように、イタリアの国内法で白だと判断されても、欧州の国際法で黒であると反論されることがあります。そこから、どの法体系の判断がより正しいのかという議論が起こることも多く、それを通じてより優れた人権保障が追求される土壌が育っています。

欧州は20世紀に全体主義を生み出し、社会的な少数派に対する人権侵害を止められなかった苦い経験があります。その反省に立って改善策を編み出し、今も模索を続けています。

日本人が憲法に無関心でいられることは幸福なのか

欧州の人権保障を知るにつれ、憲法の重さを実感します。憲法とは、基本的に多数派が動かす国に対して国民一人ひとりが持っている盾のようなもの。もし国が剣をかざしてきても、憲法には「国民に剣を不当に振り下ろしてはいけない」と書いてあります。政府がそのような憲法をないがしろにすることがあるとすれば、その政府には政治を担う資格はなく、退陣させられなければならない。しかし、日本では憲法にそのような意義があるという認識がとても弱い気がします。

日本人の多くが憲法や人権を意識せずに暮らせるのは、恵まれているからかもしれません。自分たちが多数派であれば、差別されることも少なく、ことさら人権を訴えなくてすむのです。しかしEUでは、さまざまな国の人が行き来し、自国から離れれば、母国では国民として多数派であった人も、他の加盟国に行けば外国人として少数派になります。また、フランスで認められていた権利が、イタリアでは認められないこともある。その逆もある。だからこそ自ずと人権とは何かを考え、問い直す必要に迫られるのです。

日本でもグローバル化が進み、在留外国人をはじめ、少数派の人たちの存在を無視できなくなっています。少数派と聞いて自分事としてピンとこなくても、例えば病気やケガをしただけで、私たちは一夜にして少数派に転じるかもしれません。大事なことは、自分が少数派の立場になり差別を受け人権を侵害されてから、はじめて人権とは何かを考えるのでは遅いということです。多数派の大きな声により少数派の小さな声が不当にかき消されない法体系を作ることの大切さを欧州の経験から伝えることが、私の使命だと思っています。

この一冊

『犯罪と刑罰』
(チェーザレ・ベッカリーア/著 小谷眞男/訳 東京大学出版会)

イタリア人法律家による死刑や拷問の廃止について書かれた本です。18世紀に書かれたものですが、その論理性と合理性に驚きます。欧州や国際的な潮流に反してもなお死刑を存置する日本でこそ、多くの人に読んでほしいですね。

東 史彦

  • 法学部国際関係法学科
    准教授 

東京外国語大学外国語学部イタリア語学科卒業、慶應義塾大学大学院法学研究科で法学博士取得。在ミラノ日本国総領事館派遣員、長崎大学多文化社会学部准教授を経て、2021年4月より現職。

国際関係法学科

※この記事の内容は、2022年10月時点のものです

上智大学 Sophia University