「あと一週間の命だったら?」の問いから始まる生きることへの考察

南アジアで信仰されているヒンドゥー教には信愛という概念があります。国際教養学部の置田清和准教授は、信愛を主題にしたサンスクリット語やベンガル語の文学について研究。ヒンドゥー教のユニークさや、人間の感情を解明する意義とは?

私の専門分野は、ヒンドゥー教の神学・哲学と、神々の中で最も民衆から愛されてきたクリシュナへの信愛(bhakti)をテーマに書かれた詩や演劇などの文学で、主に近代以前の南アジア文献を研究しています。リサーチのキーコンセプトは2つ、神への信愛、そして優れた芸術作品に対する美的経験(rasa)です。

信愛についての研究は、7~10世紀ころにサンスクリット語で書かれたヒンドゥー教の聖典「バーガヴァタ・プラーナ(Bhāgavata Purāṇa)」を中心に読み解いています。その内容は膨大なのですが、敢えて一文で説明すると、「自分の命があと1週間だと分かったらどうする?」という問いに対する答えが書かれています。

恋愛や友情の対象として描かれるクリシュナ神

ヒンドゥー教が示す人生のゴールは4つあり、そのうち3つは経済的な成功、快楽の追求、社会的責任を果たす、と誰にでも分かりやすいのですが、最後の一つは解脱の追求です。仏教やジャイナ教など、南アジア発祥の他の宗教と同じく「現世は苦しみに満ちている」との考えが根底にあり、そこから解放されることが解脱です。生きている間に得たものは、富であれ恋人であれ、永遠ではなく、やがて喪失や別離がやってくる。この苦悩から自由になることが、人生における究極のゴールで、神に対する強い信愛があれば、死が迫った時に、自分の意識を神に集中することによって、現世の苦しみから解放されると説かれています。

でもどうすれば、神への信愛を、そこまで強く育むことができるのでしょうか?ヒンドゥー教がユニークなのは、神が畏怖する相手ではなく、人間にとって身近な存在であるところです。私が研究している詩や物語の中でも、クリシュナ神は、常に恋愛や友情、あるいは親子の情愛の対象として描かれています。ヒンドゥー教の聖典「バーガヴァタ・プラーナ」では、愛情などの強い感情を人間ではなく、神に向けることで、神への信愛を深めることができるとしています。

「感動の科学」を探究する面白さ

南アジアでは、美学や演劇論などの分野でも人間の感情は、とても重要な要素として古くから研究対象となっています。私のもう一つの研究コンセプト、美的経験 (rasa)というのは、人が物語を読んで美しいと感じたり、感動して涙を流したりするときの心の動きを探求することで、感情について理論的に探っているところが非常に面白いです。いわば「感動の科学」であると私は捉えています。

この分野に関する最も古い文献は、推定3~4世紀頃に書かれたインド古典劇に関する演劇論書である「ナーティヤ・シャーストラ(ṭya-śāstra)」です。さながら料理のレシピ本のように、聴衆・観客・読者の意識を刺激し、狙い通りの美的経験を届けるために必要な材料や技法を論じたもので、神への信愛を主題にした詩や演劇でも、大いに活用されています。

現代社会では、人間の理性が注目される一方、感情については軽視されがちで、非常に残念です。感情を無視して、人間の行動を理解することはできません。人類学、芸術、生物学、歴史、文学、脳神経科学、心理学、哲学、社会学、そして神学など、さまざまな分野で研究が進んでいる難解なトピックでもありますが、異分野の研究であっても感情について論じているものには常に目をくばるようにしています。

10年ほど前から、神への信愛と美的経験の関係についての専門書を執筆しているところで、今はまず、これを完成することが目標です。美しく、奥深い南アジアの世界観や思想体系を、より多くの人に知ってもらい、楽しんでもらいたいと思います。

この一冊

『夜と霧(Man’s Search for Meaning)』
(ビクトール・フランクルViktor E. Frankl/著  ビーコンプレスBeacon Press/出版)

心理学者であり、第二次世界大戦下の強制収容所を生き延びた一人でもある著者が、希望や目的を持って生きることの強さを教えてくれます。平穏な日常は当たり前のものではなく、大切にしなければと痛感させられます。

置田 清和

  • 国際教養学部国際教養学科
    准教授

国際基督教大学教養学部卒(宗教学)、英国オックスフォード大学修士課程(宗教学)、同博士課程(ヒンドゥー教神学)修了。2010~2011年に米国フロリダ大学講師。独立行政法人日本学術振興会(JSPS)特別研究員(2011~2013年)、京都大学白眉センター特定助教(2013~2017年)を経て、2017年より現職。

国際教養学科

※この記事の内容は、2022年7月時点のものです

上智大学 Sophia University