キリスト教は長い歴史のなかで、教義の違いによる教会の分裂を続けてきました。神学部の角田佑一准教授は、キリスト論と三位一体論を研究することにより、各教会の根底に流れる共通点を知り、対話の道を探っています。
私の研究テーマは古代のキリスト教神学、なかでも古典的キリスト論を専門としています。キリスト論とは、イエス・キリストとは誰であるのかを探求する神学の分野です。キリスト教では、神のロゴス(子)が受肉して人間性を取り、この世界でイエス・キリストとして生まれたと考えます。そのため、イエスはまったき神であり、まったき人間であると理解します。そして、イエスは神でありながら、人間として苦しみを受け、十字架にかけられて死を体験し、3日目に復活します。イエスの十字架上の死において人類に罪のゆるしが与えられ、彼の復活において死を超えた復活の生命が人間に示され、人間の救いが確かなものとなりました。このように、イエスが神でありながら人間であることは、人間の救いの本質に直接かかわってきます。
古典的キリスト論は紀元5世紀に確立されました。しかし、キリスト論の理解の違いで、教会はカトリック教会、イースタン・オーソドックス教会(東方正教会)、オリエンタル・オーソドックス教会などに分裂しました。
教会の分裂をもたらした教義論争の一つが、イエスの本性(ほんせい)に関する論争です。カトリック教会やイースタン・オーソドックス教会は、イエスには神の本性と人間の本性という二つの本性があり、二つの本性が一なるヒュポスタシス(個的存在)において合一していると考えます。これは451年のカルケドン公会議で定められたものです。これに対して、「イエスの本性は一つである」と主張する人たちもいました。彼らもイエスが神であり人間であることを認めるのですが、「受肉した神のロゴスの一なる本性」において神性と人間性が密接に結びついているため、イエスの本性は一つであると理解します。イエスの本性が一つであると主張する人たちはカルケドン公会議の決定に反対して、オリエンタル・オーソドックス教会を成立させました。イエスの本性が二つであるのか、一つであるのか、この論争は現在も続いています。
イエスの本性が二つか一つかという論争を不毛だと感じる人もいるかもしれません。しかし、これは「神がどのように人間を救おうとしたのか」というキリスト教の救いの本質にかかわる問題であり、だからこそ譲れないのです。
20世紀になり、教会の対話を進めようとするエキュメニカル運動が始まりました。この運動は各教会の伝統を大切にしつつ、深いレベルでの一致点を探ります。イエスの本性が二つであると考える教会も、一つであると考える教会も、イエスがまったき神であり、まったき人間であるという共通理解を持っています。そのため、本性が二つであるか、一つであるかという部分は、イエスが神であり人間であることの表現上の違いであると見ることも可能です。まず対立する両者の一致点を見いだす、そしてその表現の違いを認め合う。そのためにも教義を研究する意義があるのです。
西欧や中東世界において、宗教は社会的な基盤を形成するものの一つです。教会の考えは地域社会と深くかかわっています。教会同士が対話し交流の機会を回復することが、地域に生きる人の対話や理解に結びつくと考えています。
この一冊
『ロヨラの聖イグナチオ自叙伝』
(聖イグナチオ・デ・ロヨラ/著 アントニオ・エバンヘリスタ/訳 李聖一/編 ドン・ボスコ社)
この本を読んだのは、私が学生のときでした。イグナチオが回心して、イエスに従う道を歩むようになり、自分の仲間とともにイエズス会を創設する姿に感銘を受け、「私もイエスに従う道を歩んでみたい」と思うようになりました。
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角田 佑一
- 神学部神学科
准教授
- 神学部神学科
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上智大学文学部哲学科卒、同大学院哲学研究科哲学専攻博士前期課程修了。上智大学神学部神学科卒、同大学院神学研究科神学専攻博士前期課程修了。Jesuit School of Theology of Santa Clara University(米国)博士課程修了。博士(神学)。上智大学神学部神学科常勤嘱託講師、助教を経て、2024年から現職。
- 神学科
※この記事の内容は、2024年5月時点のものです