1941年に始まった太平洋戦争は、緒戦こそ戦局は日本に有利に展開しましたが、やがて連合国軍の反攻が本格化すると、東京をはじめ日本全土が空襲にさらされ、国力も疲弊します。戦争がようやく終わった時、上智大学はどのような状態だったのでしょうか。
3人の従軍司祭が上智大学にやってきた
太平洋戦争下、東京は繰り返し空襲を受けました。特に1945年3月10日、300機以上のアメリカ軍戦略爆撃機B29による「東京大空襲」は甚大な被害をもたらし、直後の同年4月13日の空襲では、上智大学の赤レンガ校舎が焼失、1号館の講堂も焼けました。続く5月25日の空襲では、大学近辺の日本家屋がほぼ全焼します。当時の模様を、ブルーノ・ビッテル神父(1898-1988)は次のように伝えています。
「ひとつの校舎は完全に焼落ち、もうひとつの校舎も一部は破壊しましたが、資材が入手でき次第修復は可能です。大学の近辺は全くの焦土と化し、私どもだけ廃墟の真々中にちょっとした平和の孤島のようにそびえたっております」(注1)
このような状況下、「大豆と米、時々入手できた肉の切れ端で命をつないでいた」(注2)イエズス会員たちが、身を挺して上智大学を守っていました。そして1945年8月15日正午、ラジオより昭和天皇の「玉音放送」が流れ、日本人は長きにわたった戦争の終結を告げられたのです。9月2日、東京湾内のアメリカ海軍戦艦“ミズーリ”艦上にて日本は降伏文書に署名し、太平洋戦争は終わりました。
この戦艦“ミズーリ”は、上智大学と深く関わっています。同艦には、従軍司祭が乗り組んでいました。ポール・オコンナー神父とチャールズ・ロビンソン神父です。そしてもう一人、水上機母艦“ハムリン”には、サムエル・レイ神父がいました。彼らは横須賀に上陸すると、9月5日に食糧と衣類を携えジープで上智大学にやってきました。ロビンソン神父は、関東大震災(1923年)直前に来日し、上智大学で教鞭をとったことがありました。帰国後はセントルイス大学で日本語を教え、1943年に従軍司祭として海軍に入隊します。こうした関係から、上智大学と、そこに残っているイエズス会員がどうなっているのかを心配し、約1週間分の食糧等を届けてくれたのです。
食糧でなく優秀な人材の派遣を!
終戦直後の上智大学で彼らが見たのは、全員栄養失調で健康を損なっていたにもかかわらず、大学をすぐにも再開したいという、熱い意気込みを持ったイエズス会員たちでした。オコンナー神父はアメリカのマー神父宛にこう述べています。
「・・・彼等に欲しいものを尋ねましたところ、その要求は食糧ではなく人材でした。もし適(かな)うならば、英語を教えたり、日本の再建に携わる知識階級に影響を与えられるような若いアメリカ人のイエズス会員が欲しいとのことです。・・・食糧ではない、彼等のこの第一の要求は何よりも胸を打つものでした。・・・」(注3)
全国の主要都市が焼け跡となり、悄然とした世相の中、「日本の再建に携わるイエズス会員が必要だ」という要求が、アメリカだけでなく全世界を駆け巡ります。そして1947年11月、ジョン・ブルウェット(1922 – 2003)、アロイシャス・ミラー(1910 – 1971)、ロバート・フォーブス(1921 – 1979)、ダニエル・マッコイ(1912 – 2006)の4人の神父がその第一陣として、上智大学にやってきました。
ブルウェット神父は教育学科にて、フォーブス神父は英語学科で教鞭をとり、ミラー神父は英文学を教えるとともに、国際部(後の比較文化学部、現在の国際教養学部)の設立にも尽力します。マッコイ神父は、生物学の授業を担当しました。その後も、全世界から多くのイエズス会員が上智大学へ派遣され、特に第7代学長ヨゼフ・ピタウ神父(1928-2014、在位1975-1981)、第12代学長ウィリアム・カリー神父(1935-、在位1999-2005)らは、上智大学の精神的な発展の支柱となったのです。
(注1)『上智大学史資料集』第三集(上智学院、1985年、P.181)
(注2) 同(P.177)
(注3) 同 (P.179)
*印の写真はソフィア・アーカイブズ所蔵