人は言葉を使って考えます。それを紙に書き記すことで、思考は時間も空間も超えて多くの人に届いてきました。書物からデジタルへと伝達方法が変わる今、思考は変わるのか。文学部の川口茂雄教授が哲学の視点から語ります。
言語と思考はイコールではありませんが、人は言語なしでは思考できません。一方で、思考は言語にしばられる、という側面もあります。言語と思考について探求する学問分野を「言語論的転回の哲学」と呼ぶことがあります。そして言語論的転回の哲学は「物語論の哲学」とも言われます。
人は一つの事柄に面したとき、その意味や理由を見出そうとします。たとえば「この部屋は暑い」と思ったとき、「今日は天気がいいからだ」と数時間単位で理由を語ることもあれば、「秋なのに暑いのは、地球温暖化が進んだせい」と100年単位で考えることもあります。人間はさまざまな縮尺で、原因と結果や筋立てを考えるのです。
あるいは「19世紀の人が環境問題に気づいていればよかったのに」と考えるかもしれません。英語では仮定法にあたる《過去の非現実》を述べるこうした表現は、多くの言語に存在します。《別の可能性》について物語を組み立てられることも、人間の特性です。
時代の転換点で思考はどう変化するか、哲学は見定める

人間の言語は、紙と密接につながってきました。とくにここ500年は、紙とインクで人間の思考が形づくられてきたと言っていいでしょう。しかし20年ほど前から、人間の言語は液晶と電波で動くようになりました。大きな時代の転換点で、人間の思考の何が変わり、何が変わっていないのかを見定めることも哲学の仕事です。
私が注目しているのは、言語の速度の問題です。紙から液晶に変わり、言葉の流通が速くなりました。紙の書物は制作に時間がかかるぶん丁寧に作ることができ、完成したらそのまま残ります。一方、液晶に映る情報は速いがゆえにしばしばあまり練られておらず、瞬時に変更・修正・消去も可能です。
社会問題や歴史認識など、言葉を尽くして語られるべきことが、スマホの画面にパッと短い言葉で「これが本当です」と表示されます。受け取る人は「自分は正しい意見に近づけているだろうか」と不安になります。不安を手早く解消しようとして、単純な対立構造で物事をとらえがちになるのも問題ですね。別の可能性、別の縮尺が見えにくくなる……。複数の人間がいれば複数の意見がある、それは本来、豊かさであるべきです。
「どんな栄養になるのか」を考えてから言葉を摂取する
もっと言えば、ここまで質の悪い書き言葉があふれるのも人類史上初めてではないでしょうか。質の悪い言葉は昔からありましたが、多くは口頭で語られ消えるものでした。だからといって「これがいい言葉だ」と押しつけることが正しいとは思いませんし、質の悪い言葉を使う人を非難したり見下したりすれば済むととらえるのは全然有意義ではありません。
何も考えずに届いた言葉を摂取するのではなく、一人ひとりが「これはどんな栄養になるのか」と選択する時代になったと言えるでしょう。あなたの思考は、どんなタイプの栄養でできているのか。どんな言葉に合わせて、あなたの思考をチューニングしていくか。難しいことですが、「これが唯一正しい言葉だ」と言われ、押しつけられた時代よりははるかにいいはずです。
哲学というとなんだか抽象的に感じられるかもしれませんが、古くから社会の問題に実践的に対応してきた学問でもあります。デジタル社会になってすぐに言語の速度について思考できるのも、ここ100年くらいの間に多くの哲学者たちが「時間とは何か」を議論し続けてきた蓄積があったからです。過去の哲学者の書いた言語を現代の問題に照らし合わせて読み解き、人間の思考を中長期的に新たにメンテナンスしていくことも、哲学の役割なのです。
この一冊
『存在と時間Ⅰ』
(マルティン・ハイデガー/著 原佑、渡邊二郎/訳 中央公論新社)

大学時代、専門であるフランス哲学の書物を読むと、よくドイツの哲学者ハイデガーへの批判を目にしました。あるとき実際にハイデガーを読んでみると、その強靭で魅力的な思索に感嘆しました。またその後、何を言っても考えてもハイデガーの真似事のようになってしまう自分にも気づきます。なるほど、その強力な引力に惹かれつつも、いかに批判的な適度な距離感も保つか。対話し続ける甲斐のある書物です。
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川口 茂雄
- 文学部哲学科
教授
- 文学部哲学科
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京都大学文学部卒業、同文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)、甲南大学文学部准教授、ベルリン工科大学客員研究員、上智大学文学部准教授などを経て、2024年から現職。
- 哲学科
※この記事の内容は、2024年10月時点のものです