日本兵のトラウマは、なぜ可視化されなかったのかを丹念な調査で紐解く

文学部史学科 
准教授 
中村 江里

戦争から帰還した兵士たちの心の傷について、日本で広く語られるようになったのは戦後70年以上経ってからです。その先駆けとなった文学部の中村江里准教授は、当時のカルテや元兵士の家族への聞き取りを通し、丹念な調査・研究を進めています。

兵士のトラウマが本格的に注目されたのは第一次世界大戦のヨーロッパでした。目立った外傷がないにもかかわらず、震えが止まらない、手足が麻痺するなどの症状を示す兵士が急増し、「シェルショック」と呼ばれていました。

私は大学時代、第一次世界大戦期の英国軍の兵士のトラウマをテーマに研究を始めましたが、その過程で「日本兵のトラウマに関する先行研究がほとんどない」と気づいたのです。明治以降、日本は多くの戦争を経験し、日中戦争、アジア・太平洋戦争では兵士だけでも約230万人の死者を出しています。凄惨な戦争を生き延びた日本兵のトラウマはなぜ可視化されなかったのか、彼らは戦後をどう生きたのか、それが私の研究テーマになりました。

陸軍病院に残されたカルテ1800人分をつぶさに読む

戦時中、精神疾患の兵士を治療する専門病院は千葉県にある国府台陸軍病院でした。のべ1万人が入院していましたが、終戦時に軍はカルテの焼却命令を命じたのです。しかし、軍医たちはその命令に従わず、カルテをドラム缶に詰めて土に埋めて隠しました。そのおかげで、8000人分のカルテが現在も残されており、私はそのうち1800人分のカルテを閲覧しました。

それを読むと、兵士たちは戦闘の恐怖だけでなく、軍隊内の暴力や軍隊生活への不適応、自らの加害行為などによって心を病んでいました。しかしそれは「軍にとって不都合な症状」、つまり仮病のように扱われ、電気ショック療法で恐怖を与えるなどして「回復」を強制されたのです。

一方で、当時の新聞には「砲弾病(シェルショック)、皇軍(『天皇の軍隊』を意味する日本軍の自称)には皆無」という見出しの記事があります。国府台陸軍病院の医師がそのように証言することで、日本兵がいかに勇敢かというプロパガンダが行われていました。

兵士やその家族にとっても、精神を病んでの帰還は恥でした。家族から病院への手紙にも「お国の役に立てず申し訳ありません」と書かれ、兵士も「見舞いに来てほしくない」としています。兵士たちのトラウマは、国、病院、兵士、そして銃後の家族らによって何重にも隠され続けたのです。

人格が変わり、家族に暴力をふるう元兵士も

トラウマを抱えた元日本兵が、戦後をどのように生きたのかが具体的に分かりはじめたのは、ここ数年です。私が『戦争とトラウマ』という著書を出版した2018年、偶然にも「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会(現・PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会)」が発足したのです。

兵士たちの子ども世代が中心となって作られたこの会を通じ、50人ほどの元兵士の子や孫から話を聞くことができました。「人格が変わり、家族に暴力をふるった」「何度も殺されそうになった」「父は酒ばかり飲み、母と自分が家計を支えた」など、家族は大変な苦労をしていました。自死した元兵士も少なくありません。なのに、誰にも相談できなかったのです。

戦後80年がたちますが、戦争とはここまで長期にわたって人々を苦しめるものなのです。平和とは単に「戦争がない状態」を指すのではなく、差別や貧困などの構造的暴力がなく、傷ついた人に必要な手が差し伸べられる社会のこと。私の研究が、戦争で苦しめられた庶民と彼らが傷つけてきた人々の歴史に光を当てられたらと願っています。

この一冊

『戦争は女の顔をしていない』
(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/著 三浦みどり/訳岩波書店)

第二次世界大戦でソ連軍に従軍した女性兵士は100万人もいましたが、戦後は世間から白い目で見られたそうです。「英雄」とされなかった女性兵士500人の「小さき声」から戦争の本質に迫る名著です。

中村 江里

  • 文学部史学科 
    准教授

上智大学文学部史学科卒、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。広島大学大学院人間社会科学研究科准教授を経て、2024年より現職。

史学科

※この記事の内容は、2025年7月時点のものです

上智大学 Sophia University