「オピニオンリーダー」にとどまらない、新たなサルトル像を探る研究

小説や哲学書、劇作や批評などを通じて、社会に強いメッセージを投げかけてきたサルトル。文学部の根木昭英准教授によれば、サルトルは別の顔も持っていると言います。批評作品の研究から明らかになった、彼の知られざる思索とは?

私の専門は20世紀フランス文学・思想で、おもな研究対象はジャン=ポール・サルトルです。彼は小説『嘔吐』や哲学書『存在と無』など、多様な作品を残した作家・哲学者でした。

私は大学時代に『存在と無』を読み、サルトルを知りました。思想と文学が混ざり合ったようなその独自のスタイルに、とくに魅力を感じたことを覚えています。その後、フランスの文化や社会に直接触れたいという気持ちもあって留学することになり、気づけば長いあいだ、彼の研究に取り組むことになりました。

サルトルは、戦前には『嘔吐』など個人主義的な色彩の強い作品を書いていますが、戦後になると知識人として社会的な発言をするようになります。『文学とは何か』を中心とする著作のなかで、作家には政治や社会問題に積極的に関与する責任があるという「アンガージュマン文学」の考えを提唱し、それを実践したのです。

彼の考え方に対しては、文学を社会的メッセージの手段にしていると批判する声もありました。ところが、ちょうど同じころから発表されてゆく彼の批評作品を読むと、このようなオピニオンリーダーとしてのあり方とは別のサルトルの姿も見えてきます。

他作家との対話に見いだされるサルトル第二の文学論

サルトルは、ジュネやマラルメ、フローベールといった他の作家や詩人を対象に、多数の評論作品を残しました。3000ページに迫る作品もある、長大な批評群です。そのなかでも私は、彼がしばしば用いる「ポエジー」という言葉に着目しました。

「ポエジー」と言えば、一般には「詩」や「詩情」のことを指しますが、サルトル自身は詩作品をほぼ残していないこともあり、ポエジーに無関心だったと言われることもあります。しかし、彼の批評作品を細かく読んでいくなかで、この「ポエジー」という語が、じつは世界に対する作家の態度も含めた固有の意味で用いられていること、さらには、サルトルがそこに独自の倫理的意義を見いだしていることが分かってきました。

こうした思索は、一般に理解された「アンガージュマン文学」の思想とまったく別のものではないにせよ、やはり多くの点で異なっています。そこで私はこの文学論を、いわば「第二の『文学とは何か』」として再構築するべく試みることにしました。それが、おもにフランスで取り組んできた研究です。

人生や世界をより切実に感じとらせるものとしての文学

文学作品や思想について論じるのは大変なことですが、自分の解釈を納得できる形でまとめられたときの喜びは研究の醍醐味です。ですからこれからも、サルトルに限らず、近い関心を共有していたアンドレ・マルローら他作家についても新たな読み方を提示できるよう試みてみたいと思っています。世界の読者に読んでほしいので、フランス語での発信を継続していきたいとも考えています。

文学や思想というのは捉えがたいところがありますし、私自身、細かい解釈で考え込んでしまったときなどに、社会から遊離していると感じることがないわけではありません。しかし、人生についてであれ、世界についてであれ、ある作品を通じて感じたことが、文学という回り道を経た経験であるからこそ、実人生より強い印象を残すというような瞬間もあると思うのです。文学の力というと大げさかもしれませんが、文学を学ぶことの魅力は、そんなところにある気がします。そうした感覚を、学生のみなさんとも共有していければ嬉しいです。

この一冊

『シーシュポスの神話』
(アルベール・カミュ/著 清水 徹/訳 新潮文庫)

岩を山の頂上に押し上げ続ける刑罰を課された、シーシュポスという神話上の人物に仮託して、生きることの不条理、そしてそれと表裏をなす喜びについて、カミュらしい率直な文体で綴られています。本の最後の、本と同名の短いエッセイをまずは読んでみてほしいです。

根木 昭英

  • 文学部フランス文学科
    准教授

東京大学文学部思想文化学科卒、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程、パリ第四大学大学院フランス文学・比較文学研究科博士課程修了。博士(文学)。獨協大学外国語学部フランス語学科専任講師、同准教授を経て、2025年より現職。

フランス文学科

※この記事の内容は、2025年6月時点のものです

上智大学 Sophia University