複数人が関与する犯罪を中心に、人が人を裁く難しさを考える

法学部法律学科 
教授 
照沼 亮介

どのような行為が犯罪となり、どんな刑罰が科されるのか。それを定めた法律が刑法です。「人が人を裁くことに絶対的な正解はない」と語る法学部の照沼亮介教授が、専門である共犯論を中心に刑法学研究の意義を語ります。

刑法学は犯罪と刑罰に関する法律を扱う学問です。なかでも私は、複数人が犯罪を行う「共犯論」の問題を中心に研究しています。

刑法では犯罪を実行したとされる者を「正犯」といいますが、2人以上で「共同して実行した」と評価される場合には「共同正犯」として処罰されます。他方、他人に指示して犯行を決意させた場合には「教唆犯」、何らかの形で支援した場合には「幇助犯」として、それぞれ、より軽く処罰される余地があります。

集団責任か、個人責任か

しかし実際には区別の難しい場合も多く、最近では振り込め詐欺グループにおける「受け子」「出し子」といわれる人たちの行為が議論の対象になっています。例えば、既に被害者がだまされたあとになって上位者から指示され、報酬目当てに、被害者が誰かも知らないまま、金銭の受領にのみ関与したとき(近年ではさして報酬も受け取れず、それどころか上位者に個人情報を握られ、足抜けしたくてもできない状態で、いわば捨て駒のように利用されるケースもあるようです)、これを計画全体を立案し、被害者をだます行為を担った上位者と同等に「正犯」と評価できるでしょうか。

また、児童虐待のケースで、父親が暴力をふるって子供を死亡させたとき、それを止めなかった母親も常に同等に処罰されるのでしょうか。母親自身も夫からのDV被害をたびたび受けていたというような場合はどうでしょうか。

日本にはもともと、犯罪者を出したら「一族郎党、打ち首獄門」というような集団責任の考え方が根強くあります。現代でも、例えば試合に負けたら全員にグラウンド10周を走らせるといった、人を個人として評価するのではなく、集団を一括して扱おうとする風潮は残っています。単に「一体となって行動していた」というような理由のみに基づいて、全員をひとまとめに評価して処罰する考え方は、これと変わらないのではないでしょうか。

社会に目を向け、広く納得を得られるような理由付けを追求する

何が正義なのかと問われても人間の数だけ存在することでしょう。刑事裁判でも全員が妥当と思える結論に達するというのは著しく困難なことです。だからこそ、見解を異にする相手に対してであっても説得力を持ち得るような理由付けの工夫が必要です。これは、法学部生がいかなる進路に進むとしても求められる大切な素養であると考えています。

刑法学の研究は、裁判実務に対して多様な選択肢を提供するという側面を有しています。特に裁判員裁判制度のもとでは、一般市民が限られた時間のなかで裁判に関与する以上、より分かり易い説明が求められています。これは授業に際して留意すべき点と重なる部分があるように思います。

刑事裁判が被告人の人生を左右するのはもちろんですが、被害者やその家族、その周辺にいる人々、そして社会全体に影響を与えることもあります。社会と法律の接点に目を向け、ときには法改正につながるような提案をすることも研究者の責務だと考えています。

この一冊

『ジョニーは戦場に行った』
(ドルトン・トランボ/著 信太英男/訳 角川文庫)

同タイトルの映画の原作です。メタリカというバンドの「One」という曲のPVに映画のシーンが挿入されており、学生時代に衝撃を受けて読みました。腕も脚も顔も失ったジョニーの絶望が、私の目を社会へと向けてくれました。

照沼 亮介

  • 法学部法律学科 
    教授 

慶應義塾大学法学部法律学科卒、同大学院法学研究科博士課程修了。法学博士(慶應義塾大学)。岡山大学法学部助教授、筑波大学大学院ビジネス科学研究科法曹専攻(法科大学院)准教授等を経て、2012年9月より現職。

法律学科

※この記事の内容は、2023年6月時点のものです

上智大学 Sophia University