沖縄からブラジルに渡った移民たちが生み出した言葉を、記録して残していく

外国語学部ポルトガル語学科
准教授
ギボ・ルシーラ・エツコ

ブラジル移民やその子孫の言語について研究をしている、外国語学部のギボ・ルシーラ・エツコ准教授。とくに力を入れている沖縄県出身の移民の言語について、その特徴や研究をする意義となる、言葉の大切さについて語ります。

戦前から1978年までの間、約24万人の日本人がブラジルに移住して移民となりました。現在、移民の子孫を含めると約200万人の日系ブラジル人が現地で暮らしています。私の研究対象は、こうした移民やその子孫たちの話す言葉です。なかでも、沖縄県出身のブラジル移民の言葉を中心に調査をしています。

ポルトガル語を習得する機会がないまま海を渡った移民たちは、現地でブラジル人と接触する中で、日本語を使いながら徐々に現地の言葉を使うようになりました。このように二つ以上の言語が影響を及ぼしあうことを「言語接触」といいます。言語接触により、日本人が使うようになったポルトガル語混じりの日本語は、コロニア語と呼ばれるようになりました。

日本語、沖縄語、ポルトガル語が混ざった独特の言語

一方、ブラジル移民の中で最も多いのが沖縄出身者なのですが、彼らは琉球諸語の一つである沖縄語を話していたため、日本語、沖縄語、ポルトガル語の三つの言語が混ざり、コロニア語とはまた違う、独特の言葉が生み出されることとなりました。そこで私はこの言語を、「ブラジル沖縄コロニア語」と名付け、どのような特徴があるかを調べています。

研究のきっかけは、私が沖縄県出身のブラジル移民の子どもであること。現地で生まれた二世で、家では親が話す沖縄語と日本語を聞いて育ちました。ブラジルの大学で初めて正式に日本語を学んだとき、これまで当たり前に使っていた自分の日本語がかなり違うものと分かりました。例えば、沖縄の人もよく言うように「傘をかぶる(さす)」、「シャツをつける(着る)」、「車から(で)行く」と言うと、直されることがありました。こうした出来事から言語に興味を持つようになったのです。

また、沖縄語を話す移民は徐々に減ってきており、彼らの言葉を記録して残さなければならないとも思いました。言葉そのものが文化的な財産ですから、移民たちの話を聞くことは、彼らの歴史を知ることにつながる。移民たちがなぜ沖縄からブラジルに渡る決心をしたのか、慣れない国でどう言葉を習得し、現地に溶け込んで行ったのか、どのような苦労があったのかを、移民のことを知らない日本の若い人たちに知ってほしいと考えました。これが研究を続ける大きなモチベーションにもなっています。

研究の方法は、該当する現地の移民の人々に直接会い、日常会話をしながらICレコーダーで録音をすることから始まります。録音した音声を文字に起こし、そこから言葉の使い方や文法的な特徴を見つけていきます。

グローバル化社会では、言語の変化は避けられない現象

言語接触は、移民の多い国や国同士が地続きの地域では日常的な現象です。「発音や文法が違っている」などとマイナスにとらえることはありません。グローバル化によってさまざまな国の人々が交流する中で、言語は変化していくもの。日本でも外国人労働者がますます増えるといわれますが、こうした背景から、日本語も少しずつ変わっていくのではないかと考えています。

一方、日本では方言が失われつつありますが、これは文化として大事にしてほしい。現在、沖縄県では、昔の言葉や方言を記録し、若い世代に継承しようという言語復興運動が行われています。私の研究もこの運動に、何らかの形で役に立てることができたらうれしいと考えています。

この一冊

『旅するニホンゴ』
(渋谷勝己、簡月真/共著 岩波書店)

副題は、「異言語との出会いが変えたもの」。この言葉通り、日系移民が現地で伝えた日本語から戦前、日本が植民地にした国で、現地の人に使われるようになった日本語まで、異国の人との交流を通して日本語が変化していった様子が、わかりやすく紹介されています。

ギボ・ルシーラ・エツコ

  • 外国語学部ポルトガル語学科
    准教授

サンパウロ大学哲学文学人間科学部(ポルトガル語専攻・日本語専攻)卒、琉球大学大学院人文社会科学研究科国際言語文化専攻(琉球語学)博士前期課程修了。同研究科(琉球語学)博士後期課程修了。博士(学術)。2014年より現職。

ポルトガル語学科

※この記事の内容は、2022年11月時点のものです

上智大学 Sophia University