言語を生きた表現へ。創立から続く語劇の伝統

言語は単なる知識ではなく、身体を通して表現される生きた文化です。上智大学は言語を学び、実践できる環境が整っており、ディスカッションを重視する授業スタイルや多種多様な留学プログラム、Language Learning Commonsでのグループレッスンなど、キャンパスは日常的に多言語であふれています。

その中の一つに、言語のもつ魅力を演劇で表現する「語劇祭」があります。語学力向上と日頃の学習成果を学内外に発表し、かつ言語や異文化に興味を持ってもらうことが目的です。各学科の教員による指導の下、学生たちは日々練習を重ね舞台に臨んでいます。今回は創立当初から行われてきた演劇活動の歴史を一緒に振り返っていきましょう。

1.教育活動としての語劇

上智大学では、創立当初から、語劇──つまり外国語による演劇活動──が行われていました。これは、言語や文学を学ぶうえで、演劇が最も効果的な手段であると考えられていたからです。「学生は外国人教授の下に外国語の発音、イントネーション、間の置き方、ジェスチャーを含めての感情表現を正しく覚えることができた」と、『上智大学史資料集第二集』に述べられています。すなわち、上智が考える「語劇」とは、全身全霊の表現活動で言葉を体得するという学びそのものであり、その背景には、イエズス会の青少年教育のための演劇活動重視の伝統がありました。

上智大学創設者の一人であるアンリ・ブシェー神父の日記に、1915年2月19日に赤レンガ校舎の講堂で、ドイツ語劇が上演された、との記述があります。そのとき何が上演されたのかは不明ですが、大学創立当初からこうした語学教育のための語劇が行われていたことがわかります。

1921年11月3日と4日には、芝居好きのヴィクトル・ゲッテルマン神父の演出によって、シラーの『ヴァレンシュタイン』上演されました。当然のこと演者は学生で、予科においてドイツ語を懸命に勉強した後、本科に進学した 1 年生も参加していました。初めはドイツ語劇と英語劇の2つが上演されており、ドイツ語劇では、シラーの『ヴィルヘルム・テル』、ハンス・ザックスの『パラダイスから来た学生』、また演劇に精通しているホイヴェルス神父がグリム童話から脚色した創作劇などが取り上げられました。一方、英語劇では、ディケンズの『クリスマス・キャロル』などが上演されていました。

2.語劇祭へと発展

ドイツ語劇 カフカ「審判」1955年

戦前に行われていた語劇は、戦中期には中断していましたが、戦後になってからソフィア祭などで上演され始め、徐々に復活の兆しが見えてきました。そのため、1960年に各語劇団体を一堂に集め、「語劇祭」としての公演をスタートしました。

当時は英語劇、ドイツ語劇、フランス語劇、スペイン語劇、ロシア語劇、ポルトガル語劇が上演されていました。英語劇が 1970 年に語劇祭から独立し、ポルトガル語劇が 1972 年で活動を停止したため、その後は他の4語劇団体で、毎年語劇祭を開催し、意欲的な活動を行ってきました。

語劇の重要性について、第1回の語劇祭の委員長を務めた金子有一氏は、次のように語っています。「語学を勉強するということの下手な我々日本人ですが、ただ単に英語やドイツ語を書いたり、読んだり、通訳の練習をしたり……それだけで果たして外国の人を知ることができるでしょうか。風俗や習慣、強いては外国人の持つ感情まで知ることができるでしょうか。むろん劇でも台本を暗記し、舞台でそれを喋るだけでは何の意味もありません。しかし、日常授業で覚えた語学を生かし、舞台の上で外国人になりきって芝居を演ずることができるならば、……スタッフ、キャスト一体となっての努力が回を重ねるごとに、それを次第次第に可能ならしめたものだと思います」。

語学力の問題から、台詞への理解や暗記が難しいことを理由として、演劇への参加に対しあまり関心のない学生もいました。一方で、語学力向上のいい機会であるという前向きな意見をもつ学生もおり、その反応はさまざまでした。さらに、言葉だけでなく、演出も難しく、練習では発音に多くの時間を費やすなどの苦労がありました。しかし、演じる学生にとって、外国語を覚えることの基本的な考え方が語劇に示されているのです。「語学の上智」という評価が得られるようになった一つの姿が、「語劇」と言えるでしょう。

1960 年の第1回から1971年の第12回までは、平河町の砂防会館で行われました(1970年のみ中野公会堂で実施)。その後、1号館講堂、そして最近は10号館講堂へ披露の場を移していきました。

3.これまで活躍してきた主な語劇団体

ここからは『The 30th 語劇祭 SPRING』(1988年発行、1988年度語劇祭実行委員会)で紹介された「語劇祭30年の歩み―各劇団の沿革を交えて―」から、各語劇団体の沿革を紹介します。

ドイツ語劇

チラシ

ドイツ語劇は大学創立当初から行われており、1950年からはドイチェル・リンク(ドイツ文化を総合的に研究する会)によって上演されていましたが、1973年に「独語劇実行委員会」として新たに発足し、1976 年から「グルッペ‘76」、87 年に「ドイツ語劇団グルッペ」と改名し、1994 年から「ドイツ語劇団」となりました。

ドイツの最も偉大な劇作家ブレヒトを始めとして、ゲーテ、クライスト、ホフマンスタール、レッシングなど著名な作家の作品を上演したばかりでなく、伝統的な演劇の枠組みに挑戦したペータ=ハントケの『カスパー』なども取り上げました。1987年に上演したヘルマン・シュルツ作『ここにも風は戻って』いう作品では、幻想的な舞台づくりに加え、日本語を交えて演じるなどの試みを行い、学内外からさまざまな反応がありました。

フランス語劇

1967年のソフィア祭でのフランス語劇

最初はフランス語学科とフランス文化研究会によって活動が行われていましたが、1971年に「仏語・仏文語劇実行委員会」となりました。その後、「仏語劇実行委員会」「フランス演劇研究会」などと名称を変更し、1979 年からはフランス文学科の学生が中心となる「仏語劇団」へ。フランスでは著名な劇作家が多く、モリエールやサン=テグジュペリ、ジャン・アヌイ、サルトルなどの作品を取り上げています。

スペイン語劇

1959年11月2日第46回ソフィア祭でのスペイン語歌劇

スペイン語劇は、1960年の語劇祭創立以前、イスパニア語学科内でサルスエラというオペレッタの一種を上演していたことに起因しています。それが次第に演劇という形に変わってゆき、スペイン文化研究会やイスパニア語学科の手によって上演されていました。一時中断の時期もありましたが、1977 年に「スペイン演劇研究会」を発足し、ビクトール・ルイス・イリアルテやアントニオ・ブエロ・バリェホなどスペインを代表する劇作家の作品などを取り上げています。

ロシア語劇

ロシア語劇

1960年に「ロシアソビエト研究会」が主体となって行われていましたが、学生主体の「ロシア語劇」サークルに。そして、1979年には「ロシア語劇研究会」と一時名称を変えましたが、再度「ロシア語劇」となり、ゴーリキーやチェーホフの作品を数多く上演しています。このロシア語劇から、2000年に劇団「アニュータ」が、学外の上演や創作劇を目指して枝分かれしていきました。

4.2025年度語劇祭スケジュール

2025年度は12月から2月にかけて、4学科で上演されます。今年度は4年ぶりにポルトガル語劇団が復活しました。

予約不要で入場無料です。それぞれの言語の知識がなくても、劇の内容が理解できるように工夫しています。語学の上智を体感できる機会でもありますので、ぜひ参加してみてください。

2025年12月7日(日)@10号館講堂

・フランス語学科 『病は気から』 (モリエール作) 13:00開演

・ポルトガル語学科 『ジョアンとマリア』(グリム童話) 14:30開演

2025年12月22日(月)  @10号館講堂

・ドイツ語学科    『白雪姫』(グリム童話) 14:00開演

2026年2月22日(日)  @10号館講堂

・ロシア語学科    『善行』(ニコライ ウルバンツォフ作) 15:30開演

参考資料一覧:
・『The 30th 語劇祭 SPRING』(1988年発行、1988年度語劇祭実行委員会)

上智大学 Sophia University