上智大学のルーツ~ザビエルの夢と志とともに

1549年(イゴヨク広まるキリスト教)。日本史の授業中、語呂合わせでこの年号を覚えた人も多いのではないでしょうか。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した年です。上智大学は、このフランシスコ・ザビエルと深いかかわりを持っています。歴史を遡ってみましょう。

ザビエルの夢と志

フランシスコ・ザビエル(1506-1552)はイグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)と共にイエズス会(カトリックの男子修道会)を創立した人物です。ポルトガル王の要請で東インドに派遣され、その後ローマ法王の使節の資格を持ってキリスト教の宣教を精力的に行いました。

聖フランシスコ・ザビエル像(キリシタン文庫所蔵)

1547年、マラッカの教会で鹿児島出身のアンジローらに出会い、日本人が、高い道徳心、旺盛な知識欲、誠実な生活態度を有する稀有な民族だと知りました。そこで、日本において神に仕えること、宣教することが自分の使命であると考えたのです。この間のザビエルの心の動きは、ザビエルがローマへ頻繁に送った手紙で明らかとなっています。*1

1549年8月15日はザビエルが日本に初めてその足跡を記した日です。ヨーロッパ人にとっては世界の果ての地である日本へ渡航するということは困難を極めたと想像できます。初めての気候風土、食べ物、日本語学習の難しさなど、ザビエルにとって困難な事はたくさんありましたが、日本人に対する敬愛の念は変わりませんでした。「この国のひとびとは・・・・最高の国民であり、日本人より優れた人びとを見つけられない」とゴアのイエズス会員に手紙で報告しています。

ザビエルは宣教に従事しながら、「ミヤコ」に上り「国王」、つまり天皇または将軍に会い日本で正式に宣教する許可を得て、イグナチオと共に学んだパリ大学のような大学を「ミヤコ」に設立したい。その場所は、ヨーロッパと日本の両方の思想、文化の一大交流拠点としたい、という構想を固めていきました。残念ながら、ミヤコで国王に会うことはかないませんでしたが、平戸、山口、大分などで精力的な宣教をし、基礎固めをしてゆきました。

1549年11月5日付、ザビエルが鹿児島から送った手紙(ARSI所蔵 Jap. Sin. 4 f. v.16)

しかし、ヨーロッパからの便りが絶え、目的の実現準備のために一度インドに戻ります。この時にザビエルは日本人の青年2人をヨーロッパで学ばせようと同行させています。ザビエルとともに海を渡った日本人ベルナルドは、後にポルトガルを経由してローマを訪れましたが、ヨーロッパで得た知識を日本に持ち帰ることはかなわず客死しました。また、日本について情報の乏しいヨーロッパ人に対して、いかに日本人が優れているかを知らせようと、ザビエルは2人の高僧をヨーロッパへ同行させたいという計画も持っていました。残念ながら困難な船旅を嫌がり、一緒に渡航する僧が見つからず、この構想は実現には至りませんでした。しかし、「双方向的人物交流を基に日本とヨーロッパの文化・思想交流を行う」というグローバルな構想を、この時すでにザビエルは持っていたのです。

その後、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)などにより日本人司祭育成のためのセミナリオ*2、コレジオ*3が日本にも設立され、人間論、神学などが教授された時期もありましたが、1587年秀吉の伴天連追放令以降キリシタン禁令の時代に突入していくこととなります。キリシタン禁令の高札が撤去されるのには、1873年まで待たなければなりませんでした。

夢を形に

ザビエルから350年を経て日露戦争のポーツマス条約締結直後の1905年11月、教皇ピウス10世(1835-1914)は明治天皇あての親書を託し、ウイリアム・オコンネル司教(1859-1944)を親善使節として日本に派遣しました。これは、日露戦争後の平和を祝い、日本が戦場となった満州のカトリック教会を保護したことに感謝の意を表する目的のためでした。司教が日本に滞在している間に各方面からカトリック系の大学の創設要望がおこりました。司教は東京市長、帝国大学総長、桂太郎首相と精力的に会談を重ね、真に国際的な性格を持つ大学の設立の可能性を探りました。

ローマ教皇ピウス10世*
ヨゼフ ・ダールマン神父*
アンリ・ブシェー神父*
ジェームズ・ロックリフ神父*
ヘルマン・ホフマン神父*
土橋八千太神父*

司教は事の経緯をローマ教皇ピウス10世に報告し、これを聞いた教皇はイエズス会に対し、日本でのカトリック大学の設立を要請しました。教皇の要請により、1908年10月、イエズス会はドイツ人ヨゼフ・ダールマン神父(1861-1930)、フランス人アンリー・ブシェー神父(1857-1939)、イギリス人ジェームズ・ロックリフ神父(1852-1926)を日本に派遣しました。その後、へルマン・ホフマン神父(1864-1937)、土橋八千太神父(1866-1965)も加わり、財団法人上智学院を設立。1913年4月、ザビエルが日本を去って360年、ついに彼の「夢と志」が「上智大学」の開学としてここに成就したのです。 教授陣はヨーロッパ、中国、インド、アメリカ、日本の叡智を集結した集団であり、まさに世界の思想・文化・学問が交錯する一大拠点としてその後の上智を特色づける仕組みが始動しました。ザビエルの揺るぎない青写真、ピウス10世の決断、イエズス会の神父たちの熱意の上に、上智大学の歩みがあります。

*1 聖フランシスコ・ザビエルの手紙からの引用は 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』 河野純徳訳 平凡社 1985 による
*2 セミナリオ  小神学校、司祭・修道士養成のための教育機関
*3 コレジオ 大神学校、一般教育機関

*印の写真はソフィア・アーカイブズ所蔵

上智大学 Sophia University