電子スピンの理解や反強磁性スピントロニクス分野の進展に有用な知見

本研究の要点

  • 低速電子線回折法(LEED)を用いて酸化ニッケル(NiO)の表面スピン構造の特性を分析。
  • 結晶表面に回折波が局在する表面波共鳴の出現および共鳴条件下でのNiOの表面スピン構造緩和過程を実験的に確認し、数値計算で実験結果の理論的再現にも成功。
  • スピントロニクス材料として期待されるNiOの材料特性や表面層の電子スピンの理解に有用な知見。

研究の概要

上智大学 理工学部物質生命理工学科の星野 正光教授、田中 大名誉教授らの研究グループは、低速電子線回折法(LEED)を用いて、典型的な反強磁性単結晶である酸化ニッケル(NiO)の表面のスピン挙動を解析し、結晶表面に回折波が局在する表面波共鳴の出現、そして共鳴条件下でのNiOの表面スピン構造緩和過程を実験的に確認しました。さらに、数値計算により、この実験結果の理論的再現に成功しました。

本研究成果は、2つ以上のフェルミ粒子(半整数倍の強度のスピン角運動量をもつ粒子)は同一の量子状態を占めることができないという「パウリの排他原理」の基本概念を実証するものであり、電子スピンの基本概念についての理解をより深める上で重要な知見です。パウリの排他原理は、電子スピン駆動応用の最先端技術の基盤をなすことから、本研究は、電子スピン駆動素子への応用に向けた重要な示唆を与える成果と言えます。

反強磁性体は隣接する磁気モーメント(スピン)が全体として逆向きで互いに打ち消し合うように配列しているため磁力を持たないことから、「使えない材料」とみなされ、ほとんど注目されてきませんでした。しかし近年、反強磁性体のこのスピン秩序が電気的に制御可能であることが示されたことを皮切りに研究が飛躍的に進展し、例えば超高速スピントロニクス分野(物質中の電子の「スピン」とエレクトロニクスを融合させる)で新たな展望が開かれつつあります。反強磁性体を用いた超高密度磁気メモリなど、さまざまな応用も提案されており、その用途は多岐に渡ると考えられています。

酸化物反強磁性単結晶であるNiOは、強相関電子系の複雑なふるまいを理解するための研究材料として、80年以上にわたって研究されている物質です。一方、NiOはTHz(テラヘルツ)帯に共鳴周波数を有することから、次世代通信移動システム6Gに向けた超高速スピントロニクス分野で注目を集めている、古くて新しい材料です。しかし、物性の鍵を握る表面のスピン挙動については、1970年にLEEDによる解析が行われた報告がありましたが、それ以降、LEEDによる定量的実験報告はありませんでした。そこで今回、本研究グループは、先進的なLEEDを用いた表面分析を行い、その結果を数値計算結果と比較することで、表面のスピン特性の詳細を明らかにしようと試みました。

本研究では、NiOのNi2+イオン(3d電子)と低エネルギー電子のスピンに依存する可干渉交換散乱の原理に基づいています。半強磁性体NiOの磁気構造(磁気セル)を担うNi2+イオンの3d電子のスピンは互いに反平行に配列しています。その周期はNi2+イオン(化学セル)の2倍です。この周期性の違いが、電子のコヒーレントな波動性を利用した回折現象によってLEEDで観測することができます。LEED、すなわち二次元のk-空間では、半整数オーダー・ビーム(磁気セル)が半整数指標、そして整数オーダー・ビーム(化学セル)が整数指標のスポットとして蛍光スクリーン上にそれぞれ可視化できます。

本研究では、1)2つの回折ビーム強度の入射電子エネルギー依存性(I-V曲線)を測定し、半整数オーダー・ビームに表面波共鳴構造が現れることの検証、2)表面波共鳴条件下で表面スピン構造の熱揺らぎを測定することで飽和磁化と磁気相転移を確認、3)電子スピンを取り入れた相対論的LEED計算による表面波共鳴の理論的再現、そして、4)広い温度範囲での表面磁化の温度依存性が認められたことで従来の分子場理論との精密な比較が可能になり表面磁性構造の詳細な解明、にそれぞれ成功しました。

これらの知見は、電子スピンの基本的な概念の把握のみならず、最先端のスピントロニクスやマグノニクスの分野における電子スピンのふるまいの理解の一助になることが期待されます。

本研究成果は、2023年12月11日に国際学術誌「EUROPEAN PHYSICAL JOURNAL D」にオンライン掲載されました。なお、同雑誌 Volume 77(12)の表紙に本論文のグラフィカル・アブストラクトが採用されました。

研究の背景

酸化物反強磁性体であるNiOにおける絶縁体—金属相転移には、電子のスピンと磁性が重要な役割を果たしていることが知られています。そのため、強相関電子系の複雑な現象を解明するため、NiOは長年研究の対象となってきました。1970年代にはNiOの表面磁気特性に焦点が当てられ、LEEDの手法を使った実験的・理論的な研究がいくつか報告されましたが、それ以降、大きな進展は見られませんでした。

近年、超高速スピントロニクス分野の急速な進展とともに、THz(テラヘルツ)領域をカバーする高い共鳴周波数をもつNiOなどの反強磁性材料が次世代スピントロニクスデバイスの新材料として注目を集めています。これらの材料では、磁性体内のスピン波(マグノン)をスピン流キャリアとして活用し、その伝播を制御すること(マグノニクス)が研究されています。この新しいアプローチの電子材料や磁気デバイスへの応用が期待されています。

スピントロニクスデバイスの高速化・大容量化に伴う大幅な省電力化は重要課題であり、有望な反強磁性材料の物理的・化学的特性の究明がその第一歩と言えます。一例として、電気抵抗に依存しない電圧信号のみによるスピンの制御(材料中の電子状態の「トポロジー」を利用した電気磁気制御)の研究が挙げられ、日本でも大型研究プロジェクトが進められています。また、国際電気通信連合(ITU)では、2030年の6Gネットワーク実現に向け、各国の技術研究競争(FG NET-2030:Focus Group on Technologies for Network 2030)を加速させています。以上のように、反強磁性体における電子のスピンについての基礎的な理解が不可欠であり、ますますその必要性が高まってきています。

本研究では、有望な反強磁性材料として研究が進められているNiOの電子スピンの挙動についての理解を深めるため、先進的なLEED技術を用いて、その特性を明らかにすることを試みました。具体的には、NiO表面のNi2+イオン(3d電子)による低エネルギー電子のスピンに依存したコヒーレントスピン交換散乱に基づくLEED実験と、理論解析を行いました。また、得られた結果と過去の別の手法で得られた表面磁性データと比較検討も行いました。従来の中性子や光を使った研究と比べると、電荷をもつ電子を使うこの実験手法は物質の表面磁性構造の観察に適していることが明らかになりました。

なお、この研究は再訪論文(revisited paper)の形をとった総説ではありますが、過去の研究結果の単なるまとめではなく、これまで公表してこなかった、より先進的なLEED実験と理論計算で得られた表面スピンの特性についての新たな知見も含まれています。

研究結果の詳細

本研究では、LEED実験で半整数オーダー・ビーム(磁気セル)と整数オーダー・ビーム(化学セル)のスポット強度の入射電子エネルギー依存性(I-V曲線)の系統的な測定を初めて行いました。半整数オーダー・ビームに表面波共鳴構造が現れることを検証しました。その表面波共鳴条件下で表面スピン構造の熱揺らぎ(温度依存性)を広い温度範囲で測定し飽和磁化と磁気相転移を確認し、さらに、理論との比較検討を行いました。観測された表面波共鳴状態が電子スピンを取り入れた相対論的LEED計算により再現できました。広い温度範囲での表面磁化の温度依存性が求められたことで従来の分子場理論との精密な比較が可能になり表面磁性構造の解明につながりました。

  •  I-V曲線に関する検討

実験と理論の精密な比較検討を行うために、5つの整数オーダー・ビームスポットに焦点を当て、40 – 200 eVの範囲で(0 0 1)面に垂直に入射するビームのI-V曲線データをもとに、NiO表面の評価を行いました。その結果、すべてのビームで最表面の原子層の表面緩和とラムプリングが共に+1.5%から-1.5%の範囲であることを確認しました。

  • 表面波共鳴(SWR)条件に関する検討

LEEDで可視化された半整数オーダー・ビームのエネルギー依存性(I-V曲線)で、31 eV近傍に表面波共鳴(SWR)構造が現れることを確認しました。この共鳴条件下では、結晶表面にほぼ平行に伝播する回折線(表面波)が結晶内で共鳴励起され、最終的にそのエネルギーが鏡面波や他の反射波に移乗されます。すなわち、共鳴寿命(スペクトル幅)、約10-15秒間、表面近傍に捕獲された電子は表面スピンと効率的に相互作用することができます。特に、縦波の特徴をもつスピン波(その量子であるマグノン)の集団励起は、横波の光とは違い、電子と有効に相互作用することが知られています。

このSWRの状態は、結晶表面に垂直な逆格子に対するエワルド球の接線条件を調べることにより、運動学的回折理論で予測することができます。今回新たにスピンが考慮された動力学的回折理論計算でSWRの再現に成功しました。なお、計算では、Ni原子のポテンシャルはハートリー・フォック近似、結晶格子の熱振動効果はデバイワーラー因子、非弾性散乱過程は光学ポテンシャルをそれぞれ使いました。共鳴状態(31 eV、296 K)の強度は整数オーダー・ビームの約10%で過去の2 – 6%よりも大きい値を示しました。相対値でありますが、この二つのビームの強度比を理論的に説明することにも成功しました。また、理論値より見かけ上のブラッグ極大値が低い電子エネルギーにシフトすることは内部ポテンシャルで補正しました。その内部ポテンシャルは、別途I-V曲線の解析から独自に推定されたポテンシャルと一致していることの確認も行いました。別の実験手法であるLEEM(低エネルギー電子顕微鏡)を使った唯一の実験データと比較しました。

一般的に、電子・原子・分子の衝突でのスピン交換散乱は低エネルギーの閾値領域で大きな影響をもつことが知られています。しかし、高エネルギーではその寄与は連続的に減少していき、共鳴状態は現れません。今回の計算では、局所型ポテンシャルのスレーターの交換ポテンシャルを適用しました。そのため、20 – 40 eVの共鳴構造は回折波の多重散乱効果に起因すると考えられます。今後の課題として、この共鳴状態のスピン波による集団励起への寄与を調べるためにエネルギー損失スペクトルを測定する必要があります。

  • 交換相互作用の温度依存性に関する検討

180〜525 Kの幅広い温度範囲でNiOからの低エネルギー電子スピン交換散乱(半整数オーダー・ビーム強度)の温度依存性を得ることに成功しました。300 K以下では、その強度は温度の低下に従い180 K付近で頭打ちとなり、飽和特性がはじめて明確に観察されました。また、300 Kから温度の上昇に伴いその強度は減少し、磁化転移点 525 K(ネール温度)近傍では放物線状の温度依存性を示すことを確認しました。300 K以上でのこの結果は、過去のLEED実験や最近の光電子顕微鏡(PEEM)における磁気コントラストの測定データと一致しました。電荷をもたない中性子や光の実験とも比較し、表面とバルクでの磁化特性の違いも確認できました。

広い温度領域でのデータで従来の分子場理論との正確な比較が可能になりました。その結果、真空に接する表面磁化がバルク磁化を保持している理論結果と一致しました。LEEDでは、PEEMやLEEMのような表面の磁区構造の分析法と比べると表面近傍の平均的な情報しか得られません。しかしながら、今回の結果は、理論との比較で、劈開したNiO結晶の表面磁性構造がバルクの磁性を保持した終端であることを示唆している結論を得ました。このことは、スパッタリング法やエピタキシャル法で生成されたNiO薄膜のような表面内に局在した磁気モーメントの磁気的緩和とは異なる情報として役立つことが期待されます。

本研究を主導した星野教授はこの研究の動機について、「”磁性を示す強磁性体とは異なり、スピン配列が示すように磁石の性質を示さない反強磁性体は『使えない材料』と思われてきました。ところが、今、『使える材料』へ変身しつつあります”。この分野ではよくこのような”フレーズ“を聞きます。この応用には役に立たない材料との言の発端は半強磁性体研究で知られるフランスのネールのノーベル賞受賞講演(1970)にあると言われています。そのころ、この研究は電子スピンに関する基礎研究の一環として純粋に学問的興味から始められていました。この研究は学術的・基礎的な側面に焦点を当てた専門的なものであり、一般向けのものではありませんが、むしろ、有望な反強磁性材料の物理的・化学的特性の解明に役立つかもしれません」とコメントしています。

なお、この論文は上智大学の共同研究者であった故Michael J. Brunger教授(Flinders大学、アデレード、オーストラリア)の特集号に寄稿されたものです。

論文名および著者

  • 媒体名:EUROPEAN PHYSICAL JOURNAL D
  • 論文名:Coherent spin exchange scattering of low-energy electrons by Ni2+ ions in antiferromagnetic crystal NiO under surface wave resonance: experimental and theoretical results revisited
  • オンライン版URL:https://link.springer.com/article/10.1140/epjd/s10053-023-00773-8
  • 著者(共著):Masamitus Hoshino and Hiroshi Tanaka

本リリース内容に関するお問い合わせ先

上智大学 理工学部 物質生命理工学科
教授 星野 正光 (E-mail: masami-h@sophia.ac.jp)

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