比較文学を専門とする国際教養学部の河野至恩教授は、海外から見た日本文学の可能性に着目しながら、文学における複言語主義について研究しています。複言語主義の考えは、読者に充実した文学体験と「言語の間」に存在する新しい空間を提供し、日本文学の世界的な評価の実現にも貢献します。
海外読者の視点から見た日本文学というのが私の研究のメインテーマです。米国の大学に留学している時、世界各国から集まってきたクラスメートと共に、多言語が飛び交う中で日本文学を読む機会が数多くありました。彼らは日本の読者とは違う視点で日本文学を捉えていて、その解釈は私にとって非常に新鮮で興味深いものでした。
大学院時代には森鷗外の作品を研究しました。森鴎外は、江戸時代の旧式の教育と明治時代の新しい教育の両方を受けた後にドイツに数年間留学し、前近代と近代の二つの時代を生きた人物です。鴎外の作品は、彼が生きてきた多様な文化背景を反映しています。鴎外の研究にのめり込んでいた私は、多様な文化が交差する環境にいたこともあって、日本文学には新たな可能性があることに気づきました。この大学院生の時の経験をきっかけに、現在は、日本文学が出版や翻訳を経てどのように海外の文化や言語と交わりながら新しい生命を獲得していくのか、そのプロセスの研究に取り組んでいます。
文学における複言語主義が表現の幅を拡げる
もう一つの最近の関心事は、文学における複言語主義です。複言語主義という言葉は個人が多言語を扱うことを指します。一般的に社会言語学や言語政策の分脈で使用されますが、文学においては、一冊の本の中で、適切な表現を選択するために複数言語を使用することを意味します。たとえば作家が執筆中に自分の経験を伝える正確な表現や言葉が一つの言語内に見つからなかった際に、他の言語を使用します。通常、フランス文学、中国文学などと国別に分類される文学ですが、複言語主義では、一つの言語に縛られないことで、作家がより自分の意図に近い表現を選択することが可能になり、読者に真の文学体験を提供できます。複数言語から選択肢を検討することで、表現の可能性が拡がるのです。
作家が自らの作品中で複数の言語を用いることは、文学界ではいまや珍しくありません。米国育ちの水村美苗氏による『私小説from left to right』は、複言語主義に基づいて書かれた書籍の一例です。日本人作家である著者は、この本を主に日本語で書いていますが、部分的には英語を用いています。米国に移住した日本人少女が作家としてのアイデンティティーを探るという題材で、執筆言語の選択というテーマに言及しています。水村氏の他に、多くの文学賞受賞歴のある多和田葉子氏は日本語でもドイツ語でも執筆しますし、アメリカ人でありながら日本語で執筆するリービ英雄氏などがいます。リービ氏は近代文学を日本語で執筆した初めてのアメリカ人作家です。
上智大学の学生は、文化的にも言語的にも非常に多様です。日本について学ぶために世界中から集まっており、母国語に加えて日本語、英語を流暢に扱います。世界中にいる日本研究の学者たちも同じです。文学における複言語主義の研究は、多様な文化背景を持つ人の心に響き、自らの経験の意味を考える機会を提供してくれるのです。
日本文学が世界で新たに評価される鍵は複言語主義にあり
コロナ禍で国境をまたいだ移動が一時的に滞っていたとはいえ、世界はすでにボーダーレス社会です。多くの人が複数の言語を使い、世界を旅行し、自国以外の人と出会います。多様な背景を持つ作家に今求められていることは、複数の言語から適確な文学表現を選び出すことです。言語や表現を選択するプロセスは、執筆においてだけでなく翻訳においても根幹となります。翻訳された文学を読むことは、文学的表現を経験するにあたっての基本です。
今日の学術界において、日本文学の立ち位置は見直されるべき時期に来ています。日本国外で翻訳された日本文学がどれほど受け入れられるのか、それが重要な意味を持つようになってきました。翻訳された日本文学は、日本国内を越えて世界の文学界で地位を確立しているのです。
今後は、学生や学者が集えるコミュニティ作りに携わりたいと思っています。さまざまな文学を読み語り合い、文学的経験を共有し、多様な考えや背景を理解し合うことができる共有空間です。言語障壁や偏見があった時代には、このような経験を共有するのは難しいことでした。比較文学における複言語主義に関する私の研究が、こうした場所作りに貢献できるのではないかと思っています。
この一冊
『Where I am Calling From』
(レイモンド・カーヴァー/著 アトランティック・マンスリー・プレス出版)
アメリカ文学に興味を持つきっかけとなった短編小説集です。初めて読んだのは高校時代で、村上春樹による翻訳本でした。米国の大学への留学時代には、この本についての議論をきっかけに現地学生と繋がりを深めることができました。誰もが経験する、人生における心に残る瞬間を捉えた本です。
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河野 至恩
- 国際教養学部国際教養学科
教授
- 国際教養学部国際教養学科
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ボードイン大学卒(物理学・宗教学専攻)、プリンストン大学大学院比較文学部博士課程修了(日本近代文学、英文学専攻)。ウィッテンバーグ大学(米国オハイオ州)及びウィスコンシン大学で客員教授を務めた後、2006年より上智大学で教鞭をとり、2022年より現職。
- 国際教養学科
※この記事の内容は、2022年10月時点のものです