身体や身体観に影響を与える仏教を解き明かす

国際教養学科で教鞭を執るエドワード・ドロット准教授。前近代の日本において、人体を理解する上で仏教が与えた影響について研究しています。

私が研究しているのは、宗教における身体の役割や、人々が身体を学び理解する上で宗教が与えた影響です。なぜ宗教や身体の研究を始めることになったのか、それは私がアメリカで育ったことと関係しています。

アメリカ人は、宗教とは主に信仰や信念に関するものであると考える傾向があり、宗教性を精神的・思想的なものとして扱っていたのです。そのため、日本の仏教や神道の研究を始めたとき、少し驚きました。日本の宗教は実践的なものであり、信仰や信念にこだわることなく宗教的な行事を日常的に取り入れる人が多いからです。

日本人は寺社に参拝し、お守りを購入したり、初詣などの季節の行事に参加したり、亡くなった家族のために法要を行ったりします。一見、これらは宗教的な活動のように思えますが、日本では必ずしもそうとは解釈されません。神への信仰や特定の宗教的な教義・信条にあまりこだわらず、宗教的な慣習を実践しているのです。例外も存在しますが、基本的に日本では宗教と精神、知性、信念の結びつきはいささか希薄です。ところが一方で、身体や実生活とは強く結びついています。

このことに興味と疑問を抱き、宗教における身体の役割について視野を広げて考えるようになりました。

老化の過程を理解する上で仏教が与えた影響

私が主に研究してきたのは、前近代の日本における仏教が老化現象の理解に与えた影響についてです。研究を通して、宗教的な考え方や習慣が人々の老いに対する捉え方に大きな影響を与えていたことがわかりました。

かつての日本では、老体は醜く不健康で不浄なものであるとして否定的に捉えられてきました。しかし、平安時代(794〜1185年)の後期になると、一部の仏教徒は、無常と苦悩の世界である輪廻の中にあっても救済と覚醒の可能性を示す象徴的な媒体として、老いた身体を捉えるようになりました。この頃、神仏が老人の姿をとって世に現れてくる伝説、説話(説法)、縁起(寺伝)なども見られるようになります。

研究を通じて分かったことの一つは、老いの意味は時代によって変わるということです。老いとは単なる生物学的な事実にとどまらず、老いの意味や老いの捉え方、老いの感じ方は、時代や文化によって変化しているのです。

平安時代(794〜1185年)や鎌倉時代(1192〜1333年)における日本の仏教医学も研究しました。仏教医学に注目したのは、かつての老いの定義を理解する上で古代の医学書が役立つと考えたからですが、仏教医学も奥深く魅力的で、それ単体でも一つの研究テーマになりました。前近代の日本で執筆された重要な医学書には僧医が手掛けたものがあり、仏典の教えと伝統的な漢方医学の理論を融合させた内容が読み取れます。

瞑想が脳にもたらす影響

宗教と身体に関する研究を進めるうちに、宗教的な慣習が肉体に与える具体的な影響について興味を持ちました。例えば、瞑想が与える脳や身体への影響です。ご存知の通り、この数十年の間に、多くの科学者が瞑想による脳への効果を研究するようになりました。将来的には、このような研究者たちと共同研究を行いたいと考えています。

ある哲学者は瞑想の効果を、学習と習慣形成の観点から説明しています。例として、瞑想のトレーニングを楽器の練習と比較して考えてみましょう。ギターを繰り返し練習していれば、動きのパターンを徐々に体が覚え、指の動かし方を逐一確認せずとも、より速く、より自由に演奏できるようになります。瞑想や宗教的な慣習についても、同じことが言えます。

仏教における瞑想とは、仏になるための練習、つまり仏道を「実践する」の練習です。悟りを開いた者は完全に静かに座り、周囲を完全に把握し、どんな状況にも適切に対応できると仏教では説かれています。瞑想を重ねれば重ねるほど、つまり、平常心を保ち感覚を研ぎ澄ますための練習を重ねれば重ねるほど、生理学的・神経学的にこのような状態へと無意識のうちに移行できるのだと思います。練習を重ねれば重ねるほど、このような技術が上達するのです。

ただし、これは宗教的な慣習が身体にどのような影響を与えるかを示す一例に過ぎません。私が担当する宗教と身体をテーマとした授業では、学生たちは人々が宗教的な習慣を通じて身体を理解し、変化させようとしたさまざまな方法を知ることができます。有益で役に立つものもあるのですが、なかには奇妙で疑わしいものもあります。私が教える仏教と日本の宗教についての授業では、より広範な内容を取り扱っており、そこで人間が世界や宇宙、そして、そこでの自分の立ち位置を理解しようとしてきた方法を探っていきます。この授業は学生に大きな問いを与える機会を与え、自分が誰であるか、世界で何をしたいのかを考えてもらうのですが、このような問いに対する答えを見出す場所として、大学は理想的な場所と言えるでしょう。

この一冊

『The Karma of Words(言葉のカルマ)』
(ウィリアム・R・ラフルーア/著 カリフォルニア大学出版局)

日本の宗教に触れるきっかけとなった一冊です。この本に出会うまで、宗教や哲学というのは日常生活から切り離されたものであると考える傾向がありました。しかし、本書では中世日本文学に仏教がどのような影響を与えたか、また、文学的な内容だけでなく文学形式や美学(芸術作品に対する審美眼)の形成に仏教が与えた影響についても語られています。気付かないうちに宗教的な考え方がある文化に浸透し、影響していることについて考えるきっかけを与えてくれました。

エドワード・ドロット

  • 国際教養学部国際教養学科
    准教授

2005年にペンシルベニア大学にて宗教学の博士号を取得。宗教における身体の役割や、身体知識の形成における宗教的思想・慣習の役割について研究。博士号を取得後、ハーバード大学ライシャワー日本研究所博士研究員を経て、ダートマス大学講師、ミズーリ大学助教授、2014年より現職。

国際教養学科

※この記事の内容は、2022年10月時点のものです

上智大学 Sophia University