人は「聖なるもの」とともに歩んできた。宗教には人間の本質がある

宗教学を専門とする国際教養学部の村上辰雄准教授は、世界中に残る土着宗教や、宗教と暴力をテーマに研究をしています。日本人にはなじみの薄い宗教学という学問を「人間理解の学問」と語る、その意味とは。

宗教学と聞いて、どんな学問なのかパッとイメージできる人は少ないでしょう。特定の宗教や宗派、信仰の内容を研究するのは神学や教学です。宗教学とは、宗教全般を幅広く研究する学問だといえます。そして私は「宗教学とは、人間を理解するための学問」と言い換えることができると思っています。

私の研究テーマの一つは土着宗教です。キリスト教、イスラム教、仏教の三つを世界宗教といいますが、もっとも古い仏教でもその起源はだいたい紀元前5世紀ごろ。そのずっと前から、人間は共同体の中で宗教的な営みを行っていました。それを土着宗教と呼びます。

その特徴は、霊的な存在を信仰するアニミズムや、多くの神を崇める多神教という点にあります。国や地域が違っても、精霊や神や祖先といった人間以外の存在を認め、それらとともに暮らしをつくるという点では共通です。

太古から続く「人間以外のもの」への畏怖と敬愛

私が最初に研究したのは、カリブ海に浮かぶハイチの土着宗教です。ブードゥー教を信仰する人たちの生活は、常に精霊とともにありました。困ったことがあれば精霊に祈り、お供えや儀礼をし、日々の安心と充実を得ていました。

その姿に、私は懐かしさを覚えたのです。現在は失われつつありますが、日本にも神棚に手を合わせ、神社にお参りし、困ったときは神頼みをする文化がありました。神さまはあらゆる場所に存在し、困ったら助けてくれる存在だと信じられていました。ハイチの土着宗教と日本の風習が、つながっているような気がしたのです。これはフィールドワークで訪れたほかの地域でも感じた、懐かしさでした。

宗教の教義にかかわらず、人類はみな「聖なるもの」とかかわっているのでしょう。それは宗教という言葉が生まれる以前から存在していたものです。宗教的なものを生み出す想像力こそ、人間という生き物の一つの共通点といえるのではないかと私は思います。

一方で、宗教には暴力性もあります。迫害や宗教戦争、テロ行為などもそうでしょう。なぜ人を救うはずの宗教が暴力的になるのか。その研究をすることで、人間そのものの暴力性についても理解できるのではないかと考えています。

つまり宗教について学ぶことは、宗教そのものの理解はもちろんのこと、人間が本来持っている人間性を見出すことに他ならないのです。

科学的、合理的であるだけで人間らしく生きられるのか

しかし科学が進歩し、合理的であることを重視するように社会は変化してきました。宗教も神も精霊もいらないと考える人が増えてきたのも事実です。特に日本には、宗教とは無縁でありたい、近づきたくないという空気があります。そうなるのは理解できる反面、もったいないとも思うのです。人間は弱く、合理性だけでは乗り越えられない場面もあります。大災害や戦争、身近な人の死に直面したとき、「人間ではない何か」に頼ってきたのが人間です。

人間が人間らしく生きるために宗教は本当にいらないのですか? 
人として生きやすい世の中であるために、必要なものは何ですか? 

そんな問いかけをしながら、宗教が持つ本質の部分を知ってもらいたいと考えて研究を続けています。

この一冊

『聖と俗 宗教的なるものの本質について』
(ミルチャ・エリアーデ/著 風間敏夫/訳 法政大学出版局)

大学1年生のときに読み、衝撃を受けた本です。この世界には「聖なるもの」が存在し、そこから秩序が生まれるのだと論じています。批判されることも多いですが、若い人には素直な気持ちで読んで何かを感じて欲しいですね。

村上 辰雄

  • 国際教養学部国際教養学科
    准教授

米国私立ベロイト大学卒業(哲学・宗教学専攻)、米国私立シラキュース大学大学院宗教学研究科修士課程修了。米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校大学院宗教学研究科博士課程修了。博士(宗教学)。上智大学比較文化学部講師を経て、2016年より現職。

国際教養学科

※この記事の内容は、2022年7月時点のものです

上智大学 Sophia University