100年前のイタリア文学が日本人の心を揺さぶるのは、そこに人間の本質があるから

言語教育研究センター
准教授 
堤 康徳

言語教育研究センターの堤康徳准教授は、近現代のイタリア文学の研究者であり、翻訳家です。フランス文学やドイツ文学に比べてなじみの薄いイタリア文学ですが、迷宮のように奥深いというその魅力について語ります。

イタリア文学と聞いて思い浮かぶ作品はありますか? ダンテの『神曲』やボッカッチョの『デカメロン』など、中世からルネサンス期にかけての作品は教科書にも載っていますが、それ以降、現在に至るまでイタリア文学の注目度は高くはないと言えます。だからといってイタリア文学に魅力がないかというと、そんなことはありません。私自身、イタリア文学の深い魅力に引きずり込まれて40年。近現代の作品を中心に研究を続けています。

イタリア民話から栄養を得て生まれたカルヴィーノの作品

私が研究する作家の一人カルヴィーノは、1956年に『イタリア民話集』を出版しています。国家統一が遅れたイタリアでは、地域によって言語はバラバラ。全国的な民話の収集も進んでいませんでした。そんななか、カルヴィーノはイタリア版の『グリム童話』を作ろうと、イタリア全土の民話を集め、イタリア語に書き直して編纂したのです。

カルヴィーノは、民話の本質の一つが、「人、動物、草、物、すべての一体性と、それら存在するものすべてが無限に変容する可能性」にあると語っています。人は動物に変わり、動物が植物に変わり、変容する。それが民話の特性だと。カルヴィーノ自身の小説においても、動物や植物が象徴的に描かれています。民話的な想像力を自らの作品の養分にしつつ、根底には当時のイタリアが抱える諸問題を潜ませ、人間と自然、人間と歴史との関係に迫るのが、彼の作品の魅力です。

翻訳をすることは、その文学を研究することと同じ

私はイタリア文学の翻訳家でもありますが、研究と翻訳を分けて考えたことはありません。母語である日本語に翻訳して初めて原書の深い意味が見えてくることもあります。

突然ですが、アーティチョークという野菜を見たことがありますか? 松ぼっくりみたいな形をした緑色の野菜で、イタリアではよく食されます。イタリア語でcarciofo(カルチョーフォ)。最初私は、カルヴィーノの作品によく出てくるこの言葉を何度辞書で引いても覚えられませんでした。自分の記憶力の悪さを呪ったものです。しかし、イタリアに行き、この野菜を初めて食べてみて、やっと覚えられたのです。文学作品の翻訳も同じです。言語を学ぶのはもちろん、作品を精読し、関連する研究書を読み、作家が生きた時代を探るのは当然ですが、実際にその土地を訪ねてみて初めて理解できることがあります。

『ゼーノの意識』(岩波文庫、2021年)という作品を翻訳するときにも、舞台となったトリエステに行き、作者であるズヴェーヴォ研究所の所長と話し、ズヴェーヴォが通った図書館を訪れ、主人公が散歩した小道を歩きました。日本から遠く離れた街に住むゼーノという男が立ち上がり、100年後を生きる私に大きな共感をもたらしました。人間存在の愚かさと滑稽さをみごとに描いたズヴェーヴォの素晴らしさを再認識できたのです。

風光明媚で、食べ物がおいしく、ローマ帝国の中心地として繁栄し、ルネサンス発祥の地であるイタリア。でも、それだけがイタリアではありません。統一国家ができてまだ160年の国で、北と南では歴史も文化も違い、第二次世界大戦末期には内戦状態になった歴史があります。文学作品に接することで、人間と社会、あるいは人間と歴史の関係も伝わります。異なる文化を理解するうえで、文学はその橋渡し役になってくれるのではないでしょうか。

この一冊

『まっぷたつの子爵』
(イタロ・カルヴィーノ/著 川島英昭/訳 晶文社)

イタリア民話を題材にしたカルヴィーノの寓話的小説。トルコとの戦争でまっぷたつにされた子爵が、善と悪に分断されて帰郷する物語。人間の二面性を描きつつ、1950年代当時の冷戦の世の中をも彷彿とさせる奥深い物語です。

堤 康徳

  • 言語教育研究センター
    准教授 

東京外国語大学外国語学部イタリア語学科卒、同大大学院修士課程修了。上智大学言語教育研究センター嘱託講師を経て、2019年より現職。

言語教育研究センター

※この記事の内容は、2022年9月時点のものです

上智大学 Sophia University