上智大学初代学長のヘルマン・ホフマン神父は、1910年の来日以来、校地取得など大学創立に奮闘し、開学後も数々の試練に立ち向かいました。熱心な授業指導とウィットに富んだ性格で学生たちから「オヤジ」と慕われていたその素顔とは?
開学の祖、ホフマン初代学長
2022年夏、その胸像が1号館前へ3度目の引っ越しをした上智大学初代学長、ヘルマン・ホフマン神父(在任1913-1937)。ホフマン学長の厚い人望は、その胸像に象徴されています。1936年10月に入院したホフマン学長の快復を願い、卒業生たちが翌年5月に建立したものです(当時はまだ広場だった体育館側に置かれました)。残念ながら学長自身は胸像の除幕式に出席できず、直後の6月1日、72歳でこの世を去ります。その3ヶ月前には、初代学長としての功績を称えられ、昭和天皇から銀杯が下賜されました。
1864年6月23日、ドイツ・ライン地方に生まれたホフマン学長は16歳でイエズス会に入会、ヨーロッパ各地にて修学後、オランダのファルケンブルク大学で哲学教授を務めます。そして1910年、イエズス会の命を受けて45歳で来日、日本語を学び始め、所縁ある学校にてドイツ語を教えながら上智大学の開校に尽力しました。
教育者としてのホフマン教授
ホフマン学長はドイツ語の授業を最も好み、冗談を交えながら難しいドイツ語の勉強も愉快なものとした、と同僚のヨハネス・ラウレス神父(1891-1959)は『ホフマン先生のおもいで-20周忌記念』(注1)に記しています。休暇になると退屈になったため、熱心な学生2~3人を呼び個人教授をした、とも述懐しています。
当時を知る卒業生によると、ホフマン学長は新入生全員の顔と名前を全て覚えて最初の授業に臨んでいたそうです(注2)。宿題も多いものの、きちんと訂正して返却されていました。授業では熱弁のあまりツバも飛びましたが、学生たちはそれを「洗礼を受けたようなもの」と、上智の校風である教授との距離の近さとして受け止めました(注3)。
『上智大学五十年史』には「先生は(中略)教室へはいるなり、生徒を名指して質問をあびせる。(中略)生徒がみんなできれば両手をあげて『バンザイ』と自分ができたようによろこび、できないと両手をたれて自分ができないようにがっかりする。そのときの深く澄んだ、すいこまれるような碧い眼。人格と人格の触れあい。若い心の髄にぐっとくるものがある。一転してこんどはウィットをまじえる。生徒がアハハと笑うころに丁度授業終りのベルがなる。」と、当時の授業の様子が記されています(注4)。
ホフマン語録
上智大学は開学後、幾多の試練に直面します。開学にあたって、ヨーロッパ、特にドイツのカトリック教会からの援助がありました。しかし、第一次世界大戦のドイツ敗戦で同国カトリック教会からの援助を受けることが困難な状況となりました。追い討ちをかけるように1923年には関東大震災が発生し赤煉瓦校舎が半壊したほか、1930年代には大学執行部と軍部との関係が悪化。大学運営を行なっていく上で、厳しく難しい舵取りを迫られました。異国の地で多くの困難を乗り越えたホフマン学長は、今日にも通じる格言を残しています。
「金を失っても、失望、落胆することはないが、希望と勇気を失っては、人はすべてを失ってしまう」(注5)
「人間の価値は、その人の得た地位や、いわゆる立身出世の程度ではない。役者のよしあしは、その役割の上下によって定められず、その役割をいかによく、いかに完全に演ずるかによって定められる。人間のこの世における価値も、その職分をいかに良心的に果たすかどうかによって定められる」(注6)
その言葉のとおり、ホフマン学長は果敢に職分を全うし、大学の発展を確かなものにしたのです。
晩年のホフマン学長
ホフマン学長は1936年、東京新宿区の聖母病院に入院しました。闘病中も学生たちのことを想い続けていたといわれています。第2代学長のヘルマン・ホイヴェルス神父(1890-1977、在任1937-1940)は、「この心底からの親切な人柄、上智精神というものの基礎をつくった。その精神というのは、理性的であることの、家庭的であることの、無条件的に義務を果たすことの、倫理的理想主義のそれなのである」(注7)と記しています。
ホフマン初代学長はいま、半生を捧げた四谷キャンパスのすぐ側、聖イグナチオ教会に眠っています。
(注1)東京ソフィアクラブ発行(1957年、P21~22)
(注2)同P73
(注3)同P74
(注4)『上智大学五十年史』(上智大学、1963年、P53)
(注5)同P55
(注6)同P22
(注7)同P22
*印の写真はソフィア・アーカイブズ所蔵