JP
EN

第2章
上智社会福祉専門学校の設立

社専は1964年の開学以来、キリスト教ヒューマニズムを基礎にした活動を展開してきました。こうした活動を支えたのは、「他者のために、他者とともに」の精神に裏打ちされた、社会福祉の専門的な担い手を育成するための特色ある各種教育プログラムでした。

本章では、社専の設立に尽力したペトロ・ハイドリッヒ神父が遺した貴重な資料をもとに、その開学に至る過程を振り返ります。

第1節 「意志あるところに道あり」-ハイドリッヒ神父と社専構想の芽生え-

資料8 ペトロ・ハイドリッヒ神父資料番号:上智の100年_P.146_2
資料8 ペトロ・ハイドリッヒ神父

社専設立に尽力したペトロ・ハイドリッヒ神父は、1901年にドイツで生まれ、1922年イエズス会に入会、その後1933年に来日しました。山口県や岡山県のカトリック教会に奉職した後、1953年に上京、その後1971年まで本学で社会倫理学、宗教学などを講義し、神学講座の責任者となりました。

『上智の100年』(2013年、学校法人上智学院)によれば、公開講座を受講していた修道女から社会福祉施設職員の現状について聞く機会があり、社会福祉と神学を結びつけた教育の必要性を感じたといわれています。こうした思想は、これから紹介していく学校設立構想にも色濃く表れています。

また、神父は大学に赴任した際、東京都荒川区町屋のセツルメントで生活したことがあり、その経験が社会福祉とのかかわりの第一歩になったといわれています。

本章で紹介する資料の多くは、ハイドリッヒ神父が大切に保管していたものです。資料9は、1990年に彼が死去した後、当時の上智学院理事長のクラウス・ルーメル神父が発見した史料綴りです。資料の表紙に以下のように書かれています。

“ 創立の時は学校法人上智学院の中で、社会福祉学科and社会福祉専門(後専修)学校の付属施設であった。
資料は1990年11月9日死亡したHeidlich氏の部屋から出てきた。1990.11.13 K.ルーメル”

資料9 ハイドリッヒ神父が保管していたファイル資料番号:90F-9
資料9 ハイドリッヒ神父が保管していた史料綴り

ハイドリッヒ神父は社会福祉と神学を融合した教育施設の設立を目指し、1963年頃からその準備をはじめました。資料10は、ハイドリッヒ神父が、社会福祉専門学校の構想について述べたドイツ語資料です。

このなかで彼は、社会福祉の需要が高まっているにも関わらず、「我々カトリック教徒はこれまでこの点で何も行ってこなかった…」と危機感をあらわにしています。そして、社会福祉の専門家を養成する「社会福祉専修科」を設置することで、宣教活動にも効果をもたらすと主張しています。

このように、ハイドリッヒ神父はカトリックの現状と関連させつつ、学院が伝統的にもっていた奉仕の精神にもとづく社会福祉を展開する専門職の育成を目的とした教育機関の設立を目指していたのです。

資料10 ハイドリッヒ神父による社会福祉専修科構想(1963年12月20日)資料番号:90F-9_3
資料10 ハイドリッヒ神父による社会福祉専修科構想
(1963年12月20日)
資料11 ハイドリッヒ神父宛クラウス・ルーメル理事長(当時)からの書簡(1963年10月14日)資料番号:90F-9_2
資料11 ハイドリッヒ神父宛クラウス・ルーメル理事長(当時)からの書簡
(1963年10月14日)

資料11は、当時理事長をつとめていたクラウス・ルーメル神父が、ハイドリッヒ神父に宛て、社会福祉専修科構想についての意見を述べたものです。

ルーメル神父は、このなかで「この構想が非常に良い考え」であるとし、神学講座の内容とできるだけ密接に関連させることで、学生定員の充足につながるという考えを述べています。

一方、「専修科」という名称については、関係各所で議論をよぶことが予測されるため、単に「講座」とすることを提案しています。

閉校記念誌『上智社会福祉専門学校58年の歩み』(2022年、学校法人上智学院)は、開校までの道のりをハイドリッヒ神父の「孤軍奮闘の戦い」(22頁)と評しています。 神父は、こうした学内の意見に対応しつつ、関係各所との調整に奔走することになります。

第2節 社会福祉専修科開学と施設の整備

上智大学社会福祉専修科は、1963年12月に厚生省(当時)から「社会福祉主事養成機関」として認定され、翌64年4月に開講します。当時の授業は、神学講座の授業がない日に同じ教室を利用して行われていました。
専修科には保母養成のカリキュラムも設けられていました。保母を志す学生のための実習施設となったのが上智大学附属保育所「うめだ『子供の家』」です。

資料12 足立区長宛の施設設置認可願(1964年)展示番号:90F-9_15
資料12 足立区長宛の施設設置認可願(1964年)
資料13 メモがわりとして(東京電力からの用地提供について)(1964年)資料番号:90F-9_29
資料13 メモがわりとして(東京電力からの用地提供について)(1964年)

ハイドリッヒ神父は、専修科学生向けの実習施設と寄宿舎の建設を目指していました。そのために、ドイツのケルン教区に働きかけ、寄付を得ることに成功します。そして1965年、東京電力所有地の足立区梅田町(東武伊勢崎線梅島駅より徒歩10分)に「うめだ『子供の家』」を開設します。資料12は、足立区長への施設設置認可願で、文中に施設開設の目的を「キリスト教的使徒的使命を達成するソーシャルワーカーを養成」にあるとうたっています。資料13は、東京電力と交わした覚書の要点をメモとして残したものです。

資料14 うめだ「子供の家」に併設されたソフィア塾(1980年代:推定)資料番号:上智の100年_P.146_3
資料14 「うめだ『子供の家』」に併設されたソフィア塾
(1980年代:推定)

「うめだ『子供の家』」には、専修科に通う女子学生の寮である「ソフィア塾」が設置されました。ここは、後にここに就職した女子職員の寮としても使用されました。このように、この場所は社専の多様な専門職の育成に貢献することになります。

なお、「子供の家」は、日本ではじめてイタリアのモンテッソーリ教育を取り入れ、全国的にも注目されるようになります。

第3節 多様な学生が集った学びの場

資料15 旧6号館(1980年の学校案内より)1980年から1992年まで授業で使用していた建物資料番号:1980年「学校案内」
資料15 旧6号館(1980年の学校案内より)
1980年から1992年まで授業で使用していた建物

上智大学社会福祉専修科は、1966年東京都から「各種学校」として認可をうけ、校名も「上智社会福祉専修学校」と変更し、大学から独立することになります。

その後、1976年10月の学校教育法改正により「専修学校」が新たな学校制度として定められると、東京都からあらためて専修学校として認可されます。これをうけて、専門課程を置く専修学校として、校名を「上智社会福祉専門学校」にあらためます。

社専は2022年の閉校を迎えるまで、優秀な専門職を多数輩出することになります。その背景を、以下に掲げる卒業生の言葉から推測することができます。

「社会経験を積んだ方たちと一緒に社会の仕組みを勉強したかった」
「入学の動機も背景も学びも違いながら、ここに集って共鳴しているように感じます」

これは『閉校記念誌 上智社会福祉専門学校58年のあゆみ』に掲載されているある卒業生の言葉です。
高卒で社専に入学し、はじめて福祉に触れる人、福祉の現場での経験豊富な人、長く主婦であった人、留学生…様々な背景をもつ学生が集い、互いに切磋琢磨したことで、社専には独特の校風がはぐくまれてゆきます。

資料16 「第2回卒業式」(1967年)資料番号:90F-5_16
資料16 「第2回卒業式」(1967年)
資料17 図書室の様子(1985年)資料番号:上智の100年_P.159_1
資料17 図書室の様子(1985年)
資料18 保母科授業「小児保健実習」(1995年)資料番号:上智の100年_P.158_1
資料18 保母科授業「小児保健実習」(1995年)

社専の講義は、仕事を持っている学生を考慮して夜間に行われていました。このような状況のなかで、空き時間や放課後の少ない時間を福祉に関する研究会などに費やす学生も少なくありませんでした。

資料19は、社会福祉専門学校卒業生の文集『福祉のひろば』と、福祉施設での活動をまとめた冊子です。これらは学内だけでなく、学園祭の際にも配布されていました。こうした自己研鑽の積み重ねが、奉仕の精神を内包した学生と専門職の育成に寄与したのです。

資料19 サークル活動の成果をまとめた各種冊子資料番号:90F-5_5・8・12・13
資料19 サークル活動の成果をまとめた各種冊子

第4節 “Men for Others”と社専の精神

資料20 上智大学へ来校したアルペ神父(1971年4月)資料番号:ネガ2-4604M_000008
資料20 上智大学へ来校したアルペ神父(1971年4月)

“Men for Others”「他者とともに」

この言葉は、1973年にスペイン・バレンシアで開かれたヨーロッパ・イエズス会学校卒業生大会でペドロ・アルペ神父(第28代イエズス会総長)が発言した言葉です。

神父は、「今日の教会あるいは世界には、どのような人間が必要とされ求められているか」というテーマに対して、「一言で言えば、それは、“他者のために生きる人間(“Men for Others”)です」と述べています。これは、バチカン公会議以来議論されていた課題、すなわち、多様化する社会問題に対してカトリック教会はどのような態度をとるべきかという問いへのひとつのこたえであるといえるでしょう。社専はこの言葉を、自校の教育実践の理念として掲げてきました。

アルペ神父は1907年にスペインで生まれ、1927年イエズス会に入会しました。1938年来日し、イエズス会の長束修道院(広島県)にて院長を務めていた1945年8月6日に被ばくするも、医学を学んだ経験を活かし、負傷者の救護活動にあたりました。その後、イエズス会日本管区長およびイエズス会総長として広島学院中学校・高等学校(広島県広島市)の設立や上智大学の施設拡充にも尽力しました。