イエズス会は設立以来、常に貧困などの社会問題と向き合い、その解決に尽力してきました。イエズス会により設立された上智学院もまた、その精神を受け継ぎ多様な活動を展開しています。こうした活動が、上智社会福祉専門学校設立の精神的・実践的基盤となってゆきます。
本章では、現代の社会問題である「貧困」と「難民」問題解決のための活動の記録を、学院に所属していたイエズス会員に焦点をあて、その源流にさかのぼる形で紹介してゆきます。
1960年代以降、アジア諸国が社会的にも経済的にも発展する一方で、貧富の差の拡大が問題視されるようになります。こうした状況のなかで、1975年のベトナム戦争終結とその後の混乱により、多くの人々が国外への脱出を余儀なくされます。国を失った「難民」の処遇にかかわる難民問題も急速にクローズアップされます。
上智大学の元文学部助教授のホルヘ・アンソレーナ神父は、1970年代からアジアのスラム街を訪れ、貧困者の住宅確保、低コスト住宅の建設に取り組んできました。その功績が認められ、1994年にアジアのノーベル賞といわれているマグサイサイ賞を受賞することになります。
アンソレーナ神父は1930年にアルゼンチンで生まれ、1950年にイエズス会に入会、1960年に来日し、長年本学で教鞭をとりました。また、工学博士の専門知識を生かして、世界各地のスラムで低コスト住宅作りのアドバイザーとして活躍しています。
資料1は、マグサイサイ賞受賞を報じた『上智大学通信』(1994年10月1日)の記事です。神父は、貧困という社会課題の解決のために奉仕した上智大学関係者のひとりです。
難民の問題に積極的に取り組んだのは、上智大学第7代学長をつとめたヨゼフ・ピタウ神父です(在任:1975~1981年)。ピタウ学長は、1979年12月に「インドシナ難民に愛の手を」のモットーを掲げ、大学による難民支援を決定します。
ピタウ神父は1928年にイタリアで生まれ、1945年イエズス会に入会、1952年に来日し、栄光学園中学校(神奈川県鎌倉市)で教諭をした後、長年本学で教鞭をとりました。上智学院理事長、上智大学学長、イエズス会日本管区長、イエズス会総長顧問、教皇庁グレゴリアン大学学長などを歴任し、1988年大司教に叙階しました。
資料2は、ピタウ学長自ら先頭に立って、新宿駅街頭で募金を行っている様子です。この募金は学内でも行われ、現地難民の学校建設資金に充てられました。また、ピタウ学長は、タイの難民キャンプを視察し、支援の可能性を模索しました。視察の結果をうけて、1980年から上智大学学生、父母、教職員が中心となり、難民キャンプでのボランティア活動が実施されました。
このように、上智大学に所属していたイエズス会員は、その時々の社会問題の解決に取り組んでいたのです。次に、このような活動の源流を、大学の創立期までさかのぼってみてゆきましょう。
資料4は、上智カトリック・セツルメントが建設した新事業館の落成式について報じたものです。 セツルメント(運動)とは、貧しい地域に居住し、住民と交流をしながら教育、医療、保育などを支援する活動です。1931年にこれを設立したのが、フーゴ・ラサール神父です。
ラサール神父は1898年にドイツで生まれ、1919年、イエズス会に入会、その後1929年に来日し、本学で教鞭をとっていました。神父は、1923年の関東大震災後の社会不安を憂慮し、東京府三河島町(現・東京都荒川区)にセツルメントを設立しました。
資料7「三河島セツルメント報告書」によれば、創立当時の目的は、(1)生活困窮者を救済すること、(2)学生に対しカトリックの慈善事業の精神を涵養することでした。
ラサール神父は2人の学生とともにセツルメントに住み込み、欠食児童への昼食提供、健康相談室の開設、英語教育などを行いました。活動費用は、寄付とバザーなどの収益でまかなわれていました。資料7の「三河島セツルメント報告書」には、こうした活動の様子が克明に記録されています。
セツルメントの経営は、1936年に財団法人上智社会事業団(※)が担うこととなり、学院の手を離れます。しかし、神父と学生が貧困に苦しむ人々などへの奉仕に取り組むという姿勢は、上智社会福祉専門学校にも受け継がれることになります。
※1952年、社会福祉事業法の施行により財団法人から社会福祉法人に改組。民間の社会福祉事業団として児童福祉施設、医療施設、在宅介護などを展開している。