第9回 輝くソフィアンインタビュー 浦元義照さん

Veritas

浦元義照さん 国際労働機関(ILO) アジア太平洋地域総局長

2012.10.08

当時の上智をたとえるなら「出島」 多様性を受け入れる懐の深さがありました 浦元義照さん 国際労働機関(ILO) アジア太平洋地域総局長□1974年卒業(外国語学部英語学科)

浦元義照さん 国際労働機関(ILO) アジア太平洋総局長
1974年卒業(外国語学部英語学科)

上智は国際色豊かな大学
グローバルの風が吹いていました

私の生まれは宮崎県の三財村(現西都市)。田舎の村で生まれ育ちました。中学からは宮崎市内にあるカトリック系の日向学院に進学。それまでが田舎の山猿のような暮らしでしたから、外国人も多い日向学院での生活には、カルチャーショックを受けました。そして、高校三年生のときには、AFS(American Field Service)に選抜されアメリカ留学。ところが現地では、それまで5年間も学んでいた英語が全く通じなかったんです。これはかなりショックでした。身体は大人でも言語能力は赤ちゃんみたいでした。それでも1年間なんとか体当たりで英語を学び、日本に帰るころには話せるようになり、すっかりアメリカナイズされてしまいました。留学中に世界のいろんな学生と出会いましたが、みんな英語で通じあえることを知り、勝手に英語が使えればどこに行っても通用すると確信しました。

そんな私が上智大学に進学したのは、イエズス会の先生が大勢いる国際色豊かな学校だったから。中学時代からずっと西洋文化が身近にあったので、自分の肌に合うと考えたのです。在学中は、哲学や文学の知識豊富なエベレット先生、不条理演劇などをテーマに興味深い講義をしてくれたメイスン先生、美術史に詳しいラブ先生など多くの先生方から、自分がそれまで知らなかった世界を見せていただいたことに感謝しています。ちなみに、当時から上智には何においても日本の文化・価値観だけじゃなく、 多様性を受け入れる余裕のある広い土壌がありました。例えるなら江戸時代に長崎にあった出島のような感じでしょうか。世界の英知を柔軟に取り入れて、 それをもって世に出て行こうとする気概があったように思います。

UNICEF、UNIDOに計33年間従事
開発途上国で私が見てきたもの

私が国際公務員を志したきっかけは、卒業後に在ガーナ日本国大使館に勤務していたときに、ブルキナ・ファソの経済政策の支援をしているアメリカ人の国連職員に出会ったこと。彼を見て「他国の経済政策にアドバイスするのは相当な知識や能力がないと相手の信頼は勝ち得ないし、難しいはず。でも、この人は自信に満ちあふれ、いとも簡単にやってのける。それも国の枠を離れて!自分も日本の殻を破って外に出たい。そういう人になりたい。 」と思ったんです。その後、国際連合児童基金(UNICEF)に採用され、ミャンマー、スーダン、旧ユーゴスラビア、インド、インドネシア、チモール・レステなどで、保健衛生や環境衛生、貧困対策や教育、その他の社会開発事業に携わってきました。どの事業にも語りつくせないほどの思い出がありますが、なかでも印象深いのは、1997年のアジア通貨危機が訪れたインドネシア。経済的危機に陥ると、子どもが学校にいかなくなる恐れがあるため、その対策をしたのです。具体的には、ラノ・カルノという有名なタレントを広告塔にして、プライムタイムに放映する彼の番組のスポットCMで「何があっても学校に行こう」「お金がなくても学校に行ける」というメッセージを送り続けました。これが結果的に全国的な規模での運動に発展し、子どもたちの教育を受ける権利を守ることにつながったのです。

2006年からは、国際連合工業開発機関(UNIDO)で、途上国の工業化やグローバルなマーケットに進出できる事業創出、海外の企業の誘致など、途上国の経済的自立を支援する活動を行いました。その中で感じたのは、世界には10億人の貧困層がいると言われていますが、彼らの購買力が年々高まってきているということ。たとえば、お金がない人向けにプラスチックの袋に小分けしたシャンプーを低価格で販売して大儲けしている会社がインドにあったりするんです。日本もそういう人達の志向に合うものを作っていく必要があるんじゃないでしょうか。開発が遅れているといわれてきた彼らも、これからどんどん力をつけていくわけですから。

自分の殻を破り、新しい世界に踏み出そう
迷わず夢を追い続けると、不思議と運が開けてくる

60年代後半には「世界を自分の目で見てやろう」という若者が多かったように思いますが、今は物質的に恵まれている日本をなぜ出ていく必要があるのかと考える人が多いかもしれません。しかしながら、物質的な満足が人生を豊かにしてくれるわけではない。いかに多くの刺激的な出会いや経験をしてきたか、そして世の中に何を残したのかなど、思い返すことがたくさんあるほうが幸せだと思うのです。人生を振りかえったときに、何か思い返すことが少なかったら寂しいでしょう。

幸せな人生を歩むための一つの方法は、自分の殻を破ることだと思います。私は、三財村から日向学院への進学、アメリカ留学、国連での途上国赴任など、新しい場所に行くたびに自分の殻を破ってきました。殻を破るのは苦痛も伴いますが、それを越えると初めて見える景色というものがあります。若いときはより簡単に破れるのだから、どんどん外に出て自分の世界を広げていかないと。海外に行く前に、まずは日本の歴史を学んでからとか、海外の価値観を学んでからとか、そういうのも一理はあると思いますが、若い人はドロドロした経験から学ぶことは多い。 現状を打開し殻から「脱皮」する為には、あまり慎重になってちゃ動きが取れなくなってしまう。学ぶ順番はいろいろあっていいのだから、あまり順序よく行動していくと夢の実現が遠のくように思います。いろんな人から意見を伺うのもいいけど、足を引っ張られてはダメです。

そして、人生の半分は運。全てが自分の思い通りになるわけではありません。でも、好奇心を持って自分の夢の実現に向かって努力し、行動を続ければ、運をつかむチャンスがその分多くなると私は考えています。若きソフィアンのみなさんにも、興味を持ったことはなんでもチャレンジしてほしいですね。

浦元義照さん プロフィール

1967年 AFS(アメリカン・フィールド・サービス)留学生として、カリフォルニアのリンデン高校で学ぶ
1974年 上智大学外国語学部英語学科 卒業
1974年 在ガーナ日本国大使館に契約職員として勤務し、情報・広報・技術援助活動を担当
1978年 国際公務員として国際連合児童基金(UNICEF)入職
2006年 国際連合工業開発機関(UNIDO)事務局事務次長 就任
2012年 国際労働機関(ILO)アジア太平洋地域総局長 就任

上智大学外国語学部英語学科卒業後、ハーバード大学ケネディ・スクールでMPA修士号取得。国連で33年勤務 。発展途上国での経験が長い。チモール・レステ、インドネシア、旧ユーゴスラビア、インド、スーダン、ミヤンマー、ガーナ、オーストリア 、米国と9カ国に滞在し、教育・保険医療、緊急支援事業・平和構築活動、及び工業開発の分野で開発の仕事に従事。2011年の末、国連工業開発機 関の事務局次長を最後に国連を退職。2012年10月より国際労働機関(ILO)のアジア・太平洋地域総局長としてバンコクに赴任。上智大学大学院 では「紛争と安全保障」のゼミを担当。


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