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21.『使徒言行録』の描く「聖霊降臨」は、一度限りの出来事だったのですか。現代の私たちには体験されないのですか。

『使徒言行録』は、どのようにイエスの弟子たちに聖霊が与えられ、彼らがキリスト者として強められ、キリストの手足となって働くために世界に遣わされていったかを、劇的に描いています。原始の教会の誕生は、確かに歴史を画する出来事だったに違いありません。でも、聖霊の働きは原始の教会だけに限られているわけではなく、絶えず教会の中に与えられ、教会を導くものです。

そして、個々のキリスト者も、信仰の感覚さえ有していれば、今もいつも、聖霊の働きを経験することができます。ただ、聖霊の体験をあまりにセンセーショナルに考えないほうがよいでしょう。すごい感動とか、燃えるような情熱などを期待しないでください。むしろ真の聖霊の体験は、ごく地味なものだ、と考えてください。日常の色あせた繰り返しの中に、あえて一歩踏み出す勇気をいだくこと、挫折や失望の中に、あえて新しく出直す希望を持つこと、自分の体力的、精神的な限界を自覚しつつも、あえて新しい成長のために努力すること、それこそ真の聖霊の体験だと、私は思います。

22.イエスを導いた聖霊と、イエスが復活した後に弟子たちに送った聖霊とはどう違うのですか。

それは、同じ聖霊です。前にも見たように、聖書の中で「聖霊」とは、神の創造の息吹(ルアーハ)です。つまり、森羅万象に息吹き、万物を生かしている神の生命の働きです。また、特別に選ばれた人に使命を遂行させる力です。聖霊こそ、イエスの全生涯にともない、死に至るまで忠実に神からの使命を遂行させた恵みであり、イエスを死者の中から復活させた創造の息吹だ、と言えます。

さて、この聖霊は、イエスの復活によって開幕した終末の時に、新しい天地創造の息吹として、地に注がれます。聖霊は、弟子たちに注がれ、彼らを強め、世界に派遣します。

また、弟子たちを主イエスと結び、弟子たちの相互を結びます。教会を一つの体にたとえるなら、その体を生かしている霊こそ、聖霊です。

そこで、時間と空間を越えて私たちを復活の主キリストと結び、また私たちを教会として派遣するものは、聖霊にほかなりません。同じ神の創造の息吹が、今や新しい決定的な働きの時機に入った、と理解します。

23.イエスが説いた神を信じると言うなら理解できるのですが、キリスト教ではそれだけでなく、イエス自身を神として拝むのですか。

これは、とても鋭い質問ですね。実はここが、キリスト教のいちばん難しいところかもしれません。でも、「神として拝む」と言うと誤解されやすいので、ひとまずはここで、「イエスを通じてのみ、真の神と出会う」と表現しておきたいと思います。

もちろん、そう言い換えたからといって、問題の難しさは変わりません。あのイエス自身の生涯のことが思い起こされます。イエスが神の国の福音を告げ、力あるわざを通してこれを証した当初は、大勢の群衆が熱狂的に彼のもとに押しよせました。ところが、ある時を転機として、人々はもはやイエスに従わなくなり、イエスはわずかの腹心の弟子たちとともに取り残されてしまいます。その理由は、イエスが絶対的な「神のことば」として語ったからです。

ユダヤの民衆は、イエスの言葉が自分たちの耳に心地よいときは喜んで聴きました。でも、自分たちのメシア期待を裏切られたと感じたときから、イエスの呼びかけに対して拒絶をもって応えました。そこにイエスの十字架への道が始まります。マルコ福音書の第8章は、この生涯の転機を、弟子たちに対するイエスの決定的な問いかけという形で描いています。イエスは弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問います。ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシアです」と答えますが(8・27~38参照)、マルコ福音書の記述によれば、この時点からイエスは少しずつ受難と死に向けて、弟子たちを教育しようとしています。

ヨハネ福音書の第6章では、イエスの言葉が気にいらない群衆が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いておられようか」と言って、離れ去っていきます。そこでイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問います。やはりペトロが代表して、「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」という信仰告白をいたします(6・22~71参照)。

イエスの告げた福音が、ただ神の国についてのりっぱな教えであっただけなら、このような対決は生じなかったでしょう。でも、イエスは神の国が今、自分を通して来ていると言いました。そして自分の呼びかけに応えるよう、人々に決断を求めました。自分に聴く者は神に聴くのであり、自分を拒む者は神を拒む者であると言いました。そこには、イエスを通じてのみ、真の神を知るのだという、絶対的な主張が含まれています。ヨハネ福音書はこのことを、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14・6)、そして、「わたしを見た者は、父をも見た」(14・9)という言葉で表現しています。

イエスの弟子たちは、イエスの復活を体験して、このイエスの主張が正しかったのだ、と知ります。そして、イエスこそ神を仲介する方だ、と信じます。これがキリスト教信仰の特徴となります。すなわち、私たちはイエスを通して神と出会うことができる、そしてイエスと結ばれることによって、神がイエスを愛される、その同じ愛をもって、私たちをも愛してくださる、そのように信じるのがキリスト教の信仰です。

今日でも、私は初めての方にキリスト教のことをお話しするときに、やはりこの点で難しさを感じます。どんなに美しくイエスの教えを説明したとしても、最後にはこのような決定的な対決を避けて通ることはできません。人はいつか必ず、「あなたは私を何者だと言うのか」というイエスの問いに出会い、そこで決断を迫られます。これに対して、あなたこそキリストですと、つまり、あなたこそ神を決定的な形で啓示する方、私たちを生かす神のことばですと、答えることができるでしょうか。あなたこそ私の人生の意義を決定する方なのです、あなたをおいては私の生きる意味も、しあわせもないのです、と答えることができるでしょうか。せっかく長い間キリスト教のことを勉強してきても、この問いを前にして人々が去っていくのを見ることは寂しいことです。でも、しかたがありません。これがキリスト教のいちばん難しい所です。でも、これをごまかしたら、もうキリスト教ではなくなってしまうのです。

24.イエスの教えはすばらしいと思うのですが、キリスト者がイエスを「神の子」と信じているのにはついて行けません。新興宗教でも、自分を「神の子」と称している教祖はたくさんいます。同じように理解すべきなのですか。

「イエスは神の子である」という信仰は、キリスト教のいちばん中心となることで、私はこの信仰を一寸たりとも矮小化したくありません。もちろん「神の子」という言葉の意味は信仰者が自分の生活の中で理解を深めていくべきものでしょうが、これ以上にキリスト教の信仰の真髄を的確に表す表現は他にないと思います。

確かに現代では、人々にキリスト教を理解してもらうために、イエスの生涯と思想を感動的に語り、人々の共感を呼ぶアプローチも盛んです。イエスの生涯と思想は、現代人の心に訴えかけます。そして、まずイエスへの共感を人々の心に起こすことは、福音宣教の出発点でもあります。でも、イエスはただ単に、すぐれた思想家や人格者だっただけではありません。ただ単に歴史の中に多く現れた宗教的な指導者の一人だっただけではありません。私たちキリスト者たちにとって、イエスはそれだけの者ではありません。

使徒パウロは、ローマの信徒に宛てた手紙の中で次のように言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(8・32)。すなわち、神の国の福音を語り、そのために死んだイエスは、実は神の子だったのだ、神が私たちの救いのために、その独り子を世に遣わされたのだ、という信仰は、キリスト教の成立の当初から、その信仰の真髄となったものでした。

それが現代人に理解しにくいものだということを、私は知っています。しかし、どんなにわかりやすい言葉に置き換えようとしても、結局のところ内容は同じなのです。イエスの死は、ただ単に一人の殉教者の死だったのではなく、実は神ご自身がイエスの死を通じて人類の苦しみを共にになっておられたのだということ、イエスを通じて私たちの罪の結果である世界の傷と無秩序が癒され、救われているのだということ、それはイエスの復活というできごとを通じて明らかにされた啓示です。

自分のことを話して恐縮ですが、ここで本音を語っておきましょう。これは私自身の生きるか死ぬかにかかわる信仰内容であって、たとえ他の人に納得させることに成功しなくても、一歩も譲ることのできないことなのです。「イエスは神の子である」ということを否定しなければ殺すと言われたとしても、この言葉を否定するよりは私は死を選びます。

なぜなら、それが私の人生の模索の中で、私に生きる意味を与えてくれる唯一の支えだからです。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4・9~10)。

キリスト者は、復活した主イエスがいつも私たちと共におられることを信じています。して、この主イエスとの交わり、主イエスへの愛が、キリスト教の神理解の特徴になっています。究極的には、キリスト者の神への愛とは、主イエスへの愛に他なりません。イエスに従っていくために全生涯をかけること、イエスへの愛のために喜んで自分の命を捨てること、これがキリスト者の生き方です。この生き方を、キリスト者はイエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)という言葉で表しています。

新興宗教の熱狂的な信仰について、私はここで何も批判的なことを言いたくありません。問題は、その信仰がどれほど人を自由にし、人を生かし、希望と愛による生き方を可能にするか、ということではないでしょうか。

25.イエスは原罪なくして生まれたことになっています。と言うことは、イエスは人間でなく、神のお使いなのだと思います。キリスト教で復活はいちばんの真理だ、イエスの復活はすべての人の復活の「初穂」であり希望の根拠だとおっしゃいましたが、もともと人間でないイエスの復活が、原罪を持つ私たち人間の復活の保証になりうるのでしょうか。

「原罪」ということの理解をひとまず置いて、イエスは生涯の間、罪の汚れを知らなかった、とキリスト教では信じています。しかし、キリスト教ではイエスが真の人間だった、ということも信じています。

実は、この議論は大昔から繰り返されたことです。三二五年のニカイア公会議は、イエスが神を絶対的に仲介する方だということを表現するために、「神と同一本質のもの」と定義しました。その直後、イエスは人間の肉体をもっているが、霊魂は神ご自身なのだ、と主張したアポリナリスという人に対して、時の教皇ダマスス一世は、もしイエスが真実の人間でなかったとすれば、私たちの救いも真実ではなかっただろう、主は人間全体、霊魂と肉体を備え、死すべき宿命を備えた人間全体を救う方なのだ、と宣言して、これがコンスタンティノポリス公会議の定義になりました。その後、四五一年のカルケドン公会議では、イエスは「神性においては神と同一本質のもの、人間性においては私たちと同一本質のもの」という教義が宣言されました。これは、現代に至るまでキリスト教信仰の規範となっている教えです。

教義史の議論はひとまず置いて、私たちにとって大切なことは、イエスの復活こそ、私たちすべての者が終末の時に神に呼ばれて復活させられ、神の新しい創造の業によって造り変えられること、イエスの復活はその希望を保証するできごとだった、ということです。これが、キリスト者の毎日の生活の中で希望と勇気を与えている信仰です。

26.キリスト教で言われる「三位一体」ということがわかりません。説明してください。

「三位一体」についての神学的な論議はさておき、私はここで、その本来の内容であるキリスト教の根本的な信仰体験について、ご説明したいと思います。そして、そのこと自体は決して複雑なことではありません。もし私たちが、イエスこそ神ご自身を絶対的なしかたで仲介する者だと信じるとすれば、実は、そこにすでに三位一体の信仰が含蓄されている、と言うことができます。

そもそもイエスがユダヤ人たちによって排斥され、十字架につけられた第一の理由は神のことばとしてのイエスの絶対的な主張にありました。イエスは、自分を受けいれる者は神を受けいれる、逆に自分を拒む者は神をも拒む、つまり、自分に対するかかわりが、その人の神の前での究極的な運命を決定してしまう、という主張をしました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(ヨハネ12・44~45)と言われるとおりです。

そして、イエスの復活というできごとに接した弟子たちは、この生前のイエスの主張が神からの確証を受けた、神はイエスの主張を正しいものとして認め、これを公に啓示されたのだ、と理解しました。こうして、イエス・キリストへの信仰が生まれました。

この信仰は、イエスをただ単に多くの預言者たちの一人、もしくは歴史の中に現れた多くのすぐれた宗教的な指導者の一人とみなすのではありません。そうではなく、このイエスにおいて、神が歴史の中でただ一回、絶対的なしかたでご自身を与えられた、と信じるのです。イエスはただ単に神のことばを語るだけでなく、もはや撤回されたり修正されたりすることのない、神のことば自体である、と信じるのがキリスト教の信仰です。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(ヘブライ人への手紙1・1)と言われているとおりです。

イエスこそ神のことばであり、神ご自身を仲介する者であるという信仰を、聖書と教会の伝統は、イエスこそ「神の子」である、と表現しました。これはひとまず、私たちがイエスと出会うときに父なる神に出会う、そしてイエスこそ私たちに父なる神との交わりを仲介する唯一無比の存在だ、という信仰として理解しておいてください。

ただし、それだけなら神と神の子との二者しか言われていない、と思われるかもしれません。しかし、そこには上に述べた聖霊への信仰が暗黙裡に含蓄されています。聖霊において私たちがイエス・キリストと結ばれ、イエス・キリストとともに父なる神に向かって賛美を捧げること、逆にひとり子イエス・キリストに注がれる父なる神の愛と祝福は、聖霊においてイエスと結ばれている私たちにも注がれること、これがキリスト教の信仰の根本的な体験です。

キリスト教の歴史の中で、さまざまな神学が発展していったときに、この信仰の体験は、「三位一体」という教義で体系化されました。それは、唯一の神の中に、三つの独立した「位格」があって互いに神の本質を共有している、という教義です。難しい哲学の用語を用いて、神の存在を説明しようとするものですが、根本的には私たちの原初の信仰体験に基づいています。

27.三位一体についてのご説明に納得がいきません。「イエスこそ神ご自身を絶対的なしかたで仲介する者だと信じるとすれば、実は、そこにすでに三位一体の信仰が含蓄されている」というご説明ですが、イエスはただ「仲介者」にすぎず、神ご自身ではないのですか。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8・58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)と言われるように、イエスは御父と同じように神だと教わってきたのですが。

一人の方に理解していただくようにお答えすると、他の方から他の角度でご批判を受けるので、困っています。同じ信仰内容の説明でも、アプローチが違うことがあります。信仰を理解し、口に出して表現しようとするときに、その手段として使う概念や哲学が違うことがあります。この誌面ではキリスト教のことをご存じない方にどのように理解していただくか、という取り組みを心がけているので、伝統的な教義を学んだ方には、それは違うのではないか、と思われることがあるかもしれません。

イエスをどのような方として理解するのか、ということになると、すでに新約聖書の中に、さまざまに違う理解のしかたがあります。共観福音書に伝えられる原初のイエス理解は、イエスこそ私たちに神を仲介する方だ、私たちに救いをもたらす方だ、という理解です。でも、ヨハネ福音書の著者は、救いのわざの神秘を長年にわたって祈りと信仰生活の中で反芻(はんすう)して、その深い信仰体験を語っています。そこには信仰の成長段階の違いがあります。また、その信仰を発展させた土壌の違いがあります。
だから、ヨハネの描くイエスこそ自分の信仰を生かすものだ、と言う人もあってよいし、マルコの描くイエスが自分にはいちばんピンとくる、と言う人もあってよいのではないでしょうか。たとえばヨハネ的な理解だけが正しいキリスト教の信仰であって、他の理解のしかたはまちがっている、などと言ってはならないと思います。

実はこれは教会の歴史の中に繰り返された論争なのですが、今世紀のカトリック神学の指導的な人物であったカール・ラーナーが指摘したように、「イエスは神だ」という言い方はキリスト教を知らない人には誤解されがちではないでしょうか。それだけなら、神が天から下ってきて、人間の姿をしているかのように思われてしまわないでしょうか。イエスは御父と同じ意味で神なのではありません。同時に「イエスは人間だ」とも言わなければなりません。

もし自分がこれまでに教わったことや、わかったつもりでいたことが根本から問いなおされたり、信念をぐらつかされるように感じたりしたら、それはかえって信仰が成長する機会ではないでしょうか。もともと人間の知識などはごく貧しいものです。いつの日か神のもとに召され、その神秘を目のあたりにするとき、私たちが地上で知ったつもりでいたことがどれほど不完全であったかに気づかされるでしょう。でも、そのような貧しい私たちを神が招いてくださっているのですから、私たちは謙虚な心をもって、生きているかぎり求め続けたいと思います。

そして、ひとたびイエスに出会って、イエスこそ主だと信じたなら、どうぞ次のステップへ進んでください。ヨハネのように深く三位一体の神秘にわけいるまで。それはただ単に頭で理解するものではなくて、私たちが一生のあいだ祈りと生活を通して追い求め、深めていくべきものです。ご自分の愛を分かち与えようとされる父、その愛を受けとめようとする子、その両者の交わりとしての聖霊、それは私たちを包んでいる神秘です。

ヨハネ福音書が第十七章で伝えているイエスの祈りは、その父と子の心の交わりを垣間見せてくれます。父がご自分を与えて、ご自分のわざを行わせてくださること、イエスはそのわざをさせていただくことを通して父に栄光を帰することが言われます。私たちはこのイエスと結ばれ、やはり父の愛をいただき、この愛を受けることを通して父に栄光を帰するのです。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように」(ヨハネ17・26)とイエスは祈っています。

28.人間は死んだらどうなるのでしょう。キリスト教でも、仏教で言われる「輪廻」のような考え方があるのでしょうか。

これは人間の究極の救いにかかわる、とても根本的な御質問ですが、「死後」のことを説明することはむずかしいですね。この私たちの世界で経験できないこと、ただ信仰によって信じられることがらを説明するには、経験から得られた譬えを使って、何とか方向を指し示すことしかできません。聖書を読みますと、パウロも同じような質問を受けて、一生けんめい苦労して、いろいろな譬えを使って説明しています。

キリスト教では、人間の生涯は一回限りで、繰り返すことができないものと考えられます。だから、輪廻とか生死の流転などの思想はありません。キリスト教で信じられる救いは、神のいのちへの参与、「永遠のいのち」と呼ばれるものです。これは、死後にずっと絶え間なく続く生ということではありません。私たちは時間の流れの中に生きていますから、死んだ後のこともも時間的に想像しがちですが、そもそも「死」とは、時間の中での生の営みを終えることです。だから、「永遠」とは時間を越えることです。まったく違った次元で新しい存在のしかたです。

パウロは、植物の譬えを使って、朽ちるものに蒔かれて、朽ちないものに復活する、と説明しています(1コリ15の35~49参照)。つまり、私たちの地上の生涯は蒔かれた種子のようなものです。時間の中に蒔かれるのですが、それは永遠のものとして実ります。種子としての姿は壊れて、まったく新しい様相になりますが、だからと言って、それは他の異物ではなく、その種子の実った姿です。永遠とは、時間の中で営まれた生が実り、神の前で決定的な姿にされたことを言います。

このように説明しても、納得していただけないかもしれません。というのも、私たちは永遠のいのちのことを、ただぼんやりとしか想像できないからです。ちょうど太陽が昇ろうとしている丘の道を歩いているように、丘の向こうが明るくなっていることを見ても、光そのものを見ることはできないのです。でも、これこそがキリスト者の希望となっています。死を越えるいのちへの希望こそ、世間的な損得を越えて愛のために自分を捧げる力となっています。

29.死後に「永遠のいのち」があることを、どうして信じることができるのですか。

人はだれしも、死を恐れます。こわい、というのが正直な気持ちです。彫刻家の舟越保武氏が、述懐しておられます。「黒い底知れぬ暗黒が私の数歩前に存在し、私はそれから逃れようともがいている」(『あけぼの』一九九〇年九月号)。誠実な、魂の告白で、身につまされますね。自分の生涯の終わりに待っているものが底なしの暗黒の穴でないと、どうして言うことができるのでしょうか。

キリスト者であろうとなかろうと、私たちはだれしも、この不安をいだきます。その不安を解決するために、さまざまな宗教があるのかもしれません。そして、キリスト教の信仰というものは、そのような人間の不安に一つの解答を与えています。その解答が自分にとって納得いくものであるかどうか、それは一人ひとりが自分の心の中に問わなければならないでしょう。

イエスが信頼して、死の苦しみの中で身を委ねた、あの父なる神を、私たちも信じるのでしょうか。その父が、私たち一人ひとりをお造りになった方であり、私たちのしあわせをいちばん望んでおられる方であること、その方が私たちの帰りを一日千秋の思いで待っていてくださることを信じるのでしょうか。そして、死という人間の生涯のもっとも根源的な宿命、もっとも確実に迫りくるものでありながら、もっとも決定的に人生の意味を疑問に付してしまう宿命においてこそ、神をそのような方として信じるのでしょうか。その宿命を前にまったく無力な自分を、抱きとめてくれる方として信じ、そのやさしい腕の中に身を投げ出すのでしょうか。

もし私たちがそのように父なる神に信頼したとすれば、そのとき私たちは熱心に教会に通うことにもまして、たくさんの教理の勉強をすることにもまして、真にキリスト者となったということができるでしょう。なぜなら、キリスト教の信仰とは、結局は理屈ではなく、根源的な生き方の決断だからです。信仰とは、教えの体系を受け入れることではありません。そうではなく、信仰とは、究極的には、このもっとも単純で、人間にとってもっとも根源的な信頼なのだ、と思います。イエスが十字架の上で父を呼んだこと、そして、父がイエスの信頼を裏切ることなく、イエスを永遠のいのちに挙げられたことを思うとき、キリスト者はそこに、自分たちにも与えられている招きを感じとります。

あるドイツの著名な神学者が、危篤の床で苦しむ友人に語ったといわれます。「友よ、心配するな。ほんの数秒の辛抱で、あなたはすぐ、父のもとにいるのだから」。
キリスト教の信仰とは、人間的に見て、こわく、暗い死が、永遠のいのちへの門なのだ、それは単に通過であって、絶対的なものではないのだ、それを通してこそ、父のみもとに行くことができるのだ、と信頼して身を委ねる生き方です。イエスの死と復活がこのことを呼びかけています。そして、この呼びかけの他に、私は死の不安に対して納得いく答えをどこにも見いだしません。

30.人間の救いが「永遠のいのち」と考えるなら、結局は私たちの生きている世界は大切ではなくなって、ただ「あの世」のことだけを望んで生きることになりませんか。

もし「永遠のいのち」を得るために、この世界のことをすべて放棄して、ひたすら「あの世」のことだけ考えるというのでしたら、それは本当の意味でキリスト教的な生き方とは言えません。確かにキリスト教の信仰は、この世界のすべてが過ぎ去るものだということ、この世界のどんな財産も地位も究極的な価値ではないのだということを教えています。でも、究極的な価値である永遠の生を準備するのは、この世での生です。私たちは生きているかぎり、与えられた可能性のすべてを使って、永遠のいのちの種子を育て、成長させなければなりません。キリスト者は、この世界で準備したものを、神が創造のわざをもって、永遠のいのちへと変容してくださることを希望しています。だから私たちは、今ここで、神の創造のわざに参加するように呼びかけられているのだ、と言ってもよいでしょう。

マルティン・ルターは、「もし明日、世の終わりが来るとしたら、私は今日、リンゴの木を植えよう」と言ったと伝えられています。つまり、永遠のいのちを憧れる者にとっては、まさにその憧れのゆえに、この世界での一瞬、一瞬のかかわりが永遠の重みを持つようになるのではないでしょうか。

31.宗旨が違うと、死んだ後で違う所に行くのでしょうか。

ときどき、キリスト教の洗礼を受けると家の墓に一緒に入れなくなる、と心配する人がいます。確かに宗派によっては、一人でもキリスト者になれば墓を移ってもらう、という厳しいお寺もあります。さて、私にいわせれば、お墓など、あまりこだわらなくてもよいと思います。キリスト者だからといって、事情によってはお寺のお墓に葬られてもよいし、仏式で葬儀をしてもらってもかまわないでしょう。公には仏式で葬られ、家の人たちと一緒にお寺のお墓に納骨された人がいて、教会でその人のために、私的に追悼ミサを捧げることもできます。というのも、神様はただお一人で、神様の前では宗派の違いなどないからです。

キリスト教では、宗派が違ったからといって、死んだ後で別の所に行くとは考えません。それぞれの宗教で、信念に従って生き、神のみむねにかなった人たち、神の子らの家族に迎えられるでしょう。そこで私たちがどういう姿をしているだろうか、それは想像の域を越えています。たぶん、私たちが今ここで想像しているものとは、はるかに違ったものでしょう。いずれにせよ、神の子らの家族はただ一つであって、そこでは宗派の区別などなく、神のいのちにあずかる人々の、しあわせな交わりがあり、すでに亡くなった私たちの親族とも、再びまみえることを信じています。

32.不幸に亡くなった人のために、どのように供養してあげることができるのでしょうか。キリスト教にも死者のための供養ということがありますか。

「供養」という言葉の意味もさまざまでしょうが、成仏しきれずにさまよっている霊を慰める、というようには、キリスト教は考えません。私たちには、その人が亡くなって今どういう状態にあるのか、知るよしもありません。一人ひとりの生涯と、心に秘めた思いをご存じなのは、ただ神様お一人ですから、私たちはただ、神の慈しみ深いみ手に、亡くなった人をお委ねするよりほかありません。

でも、亡くなった先祖や家族の人々のことを大切にするのは、日本人の美しい習慣だと思います。これはキリスト教的にも、おおいに奨励すべきことです。キリスト教では、すでに世を去った人も、まだ世にある人も、神の一つの家族として時間と空間を越えて結ばれていること、神において相互に交わり、神のいのちを共有し、恵みを分かちあい、助けあうことを信じて、これを「聖徒の交わり」と呼んでいます。とくにカトリック教会で、聖母マリアをはじめ諸聖人たちへの尊敬を大切にしているのは、その理由です。これは、日本人に特有の祖先崇拝の心にもつながります。

亡くなった人々が、神の慈しみのみ手に抱かれて、永遠の憩いに迎えいれられるよう祈ること、同時に、すでに神のもとにある人々が地上の私たちのために神の前に取りなしてくれるよう祈ることは、正しいことです。

33.この世のはかなさをつくづく感じます。あまり難しいことを考えずに、自分に与えられた境遇を甘んじて受けとめ、こだわりなく、虚心坦懐に生きていればよいのではないでしょうか。

そうですね。自分の境遇を甘んじて受けとめ、その中で素朴に、何の執着も野心もなく、つつましく生きられたらどんなによいでしょう。でも、私たちは複雑にからみあった人間社会の中に生きています。他者とのかかわりなしに、自分だけが清い生活をして救われる、というわけにはいきません。

そもそもキリスト教の信仰によれば、人間が生きているということは、すなわち神によって愛され、生かされているということです。神がこの人間を愛し、名をもって呼ばれたからこそ、この世に存在しているのですね。しかも、神が人間を呼ばれたのは、ご自分の愛を注ぎ、これに応えさせるため、そのようにしてご自分の永遠のいのちの交わりにあずからせるためです。もし人間が神によって無から存在へと呼びだされたのであれば、それは決してただ一時的に生を受け、死んだら消えてしまうため、というはずがありません。

人間は一人ひとり、愛するために生を受け、愛することによって自分の存在の意味をまっとうするために呼ばれています。

確かに私たちは、この世のはかなさを経験します。歳をとって力と健康が衰え、美と栄華が衰退していくのを経験するときに、人生のすべてが過ぎ去っていくものであることを痛感します。家族であれ、友人であれ、どんなに親しい交わりも、この世ではいつかは別れの時が来ます。しかし、だからと言って私たちの人生が刹那的であるとか、燃えるローソクの炎のように、その場かぎりのものであると考えてはなりません。この過ぎ去っていくものの中で、永遠の交わりに向けて生きること、つまり一瞬、一瞬を神からの呼びに応えて、永遠のいのちの共同体を準備するために生きることが、キリスト教の信仰です。

だから、虚心坦懐に生きるのは結構ですが、愛のない世捨て人などになってはなりません。人間は愛するために生まれてきたからです。愛のみが永遠を築くものだからです。そして愛するためには、ときには「こだわり」も必要になる、と私は考えます。

34.あえて「永遠のいのち」などを信じないでも、この世で精一杯に生きればよいのではないでしょうか。

そもそも、どの人間も生きているかぎり、自分の生きていることの意味を問います。そして、やはり心の奥底に、自分の人生が無意味なものでないことを望んでいます。でも、もし人間がただこの世の中に生きている間だけ存在し、後は消えてしまうものであるとしたら、結局は生きていることに意味はないのではないでしょうか。もし私たちが現世かぎりの存在であるなら、生まれつきハンディーキャップを負わされた人間は報われないでしょう。隣人愛のために自分のいのちを捧げることの意味もなくなってしまうでしょう。パウロが言うように、「もし、死者が復活しないとたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(1コリント15・32)。

どの人間も、自分の生きていることに意味があることを、そして自分という存在が肯定されることを求めます。

そう考えると、「死を越えるいのちへの希望」ということは、どの人間も生きているかぎり、潜在的であれ、意識的であれ、捨てることのできない自然の願望ではないでしょうか。キリスト教の復活信仰は、この人間に根源的で普遍的な希求に対して答えるものです。そして、イエス・キリストの復活において、その希望の保証が与えられているのだ、と信じています。

35.働き盛りの夫が突然倒れ、他界しました。仕事半ばにして死んでいった人にとって、その死は何だったと考えたらよいのでしょうか。聖書には「死は罪の結果」と言われます。夫は罪のために死んでいったということなのでしょうか。

ご不幸を聞いて、心を傷めています。死の意味について、すでに何度か取りあげましたが、とても真剣にお尋ねなので、あえてお答えしようと思います。

まず注意しなければならないのは、聖書の中で、「死」という言葉が二つの違った意味に用いられていることです。その一つは、人生の終わりとしての肉体の死。他の一つは、神からの離反によってもたらされる、神のいのちに対する死です。パウロはローマ書で「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」(5・12)と語り、「罪が支払う報酬は死」(6・23)と語ります。なるほどここで言われる死は、罪の力によって人間が神のいのちにいわば窒息させられることで、この死こそ私たちが真に恐れるべき不幸ですが、パウロは同時に、この死がキリストの死を通して克服された、と語ります。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」(6・8)。パウロによれば、神はキリストの死をとおして「死のとげ」(1コリント15・55)を滅ぼしてくださったのです。

だから、人生の終局としての死と、神からの離反としての死とは、はっきり区別しなければなりません。ご主人が亡くなったことは、人生の終局としての死であって、それは決して罪の結果である神からの離反としての死ではありません。確かに死は、人の生きることの意味を根源から脅かします。どんなにバリバリ仕事をしていても、死はそれまでに積み上げてきたことの意味を一瞬にして疑問に付してしまいます。どんなに親しい人々とも、この世では二度とまみえることのない別離となります。だからこそ私たちは、決してこの世の価値を絶対視するような現世主義にあざむかれてはなりません。私たちの地上の生は、どんな業績も、どんな美も健康も、すべて過ぎ去っていくものなのです。

キリストの福音は、過ぎ去っていくものの中にあって、過ぎ去ることのないものに目を注いで生きるように呼びかけています。真の価値とは、世間の人々にうらやましがられるような地位や名誉ではありません。業績や成功でもありません。そういうものは、すべて過ぎ去ります。真の価値とは、神の前で尊ばれる価値であり、決して過ぎ去ることのない価値です。そして、それはキリスト教の信仰によれば、愛にほかなりません(1コリント13・1以下参照)。

神がみそなわすのは、人がどれほど神と人間への愛に生きたか、ということです。そして、そのことが永遠のいのちとして実るものです。

ご主人がどれほど神を愛し、隣人を愛していたか、これは私たちには判断できません。神のみが、その人の心のいちばん奥底をご存じです。私たちは亡くなった人を、ただ神のあわれみにお委ねするよりほかありません。私たちが忘れてならないことは、神こそ一人ひとりの人間をお造りになった方であり、だれにもまして一人ひとりの幸せを望んでおられる方だということです。もしあなたがご主人の人生に意味があったことを望んでおられるとすれば、神はなおさらのことではないでしょうか。神こそ、私たちの計り知れないご計画をもって、一人ひとりを導き、一人ひとりの人生に意味を与えてくださる方ではないでしょうか。

36.キリスト教では人が死んだとき、「神様がお召しになった」と言います。もし神様が人の生死をつかさどっておられるのでしたら、いったい何のために人を人生半ばにしてお召しになるのでしょうか。

残された者にとって、これは本当に苦しい問いですね。神を恨みたくなるような気持ちになります。私の姉が、突然五十才の若さで、二人の子どもを残して亡くなったとき、私もそのような気持ちになりました。でも、神の思いは私たちの浅はかな思いをはるかに越えます。私たちに理解できないことは、ただ神のはからいにお任せするよりほかないと思います。

もちろん身近の人との別離は悲しいことです。しかし、キリスト者はこの人生が最終的な鍵を握るものではないこと、人間にとって究極的な意味を持つものは神の前でのいのちであることを信じています。だから、人生の終わりである死は、キリスト者にとって必ずしも不幸ではありません。むしろ永遠のいのちを憧れて生きる者にとっては、死こそ、その生の総括であり、完成です。死こそ、永遠のいのちへの門、他の何にもまして私たちが待ち望んでいる究極的な救いの始まりです。それは、すべてのものをお造りになった天の父にまみえるときです。

人は命あるかぎり、神の恵みに支えられ、神によみされる永遠のいのちを準備します。神は死のときに、人が生涯をかけて編みなしてきたいのちの素材を、たとえそれがどんなにみすぼらしいものであったとしても、ご自分の創造の息吹をもって、はえある栄光の姿に変えてくださいます。

残された私たちにとっても、この信仰は希望を与えます。私たちの愛する人々が神のいのちに生かされていることを思うなら、地上の別離がどれほど痛ましいものであるとしても、それは究極的にはただ一時的な別離にすぎません。私の姉は、もともと遠くに住んでいて普段は会えなかったのですが、亡くなってからは、むしろ近くにいるような気がしてなりません。すしずめの電車で隣り合わせになる人とは、肉体的に近くにあっても精神的に遠いように、人間の出会いとは必ずしも距離的な近さが決定的ではありません。もともと遠くに住んでいた姉と私は疎遠でしたが、姉が亡くなって、かえって姉を身近に感じます。神の永遠のいのちにおいて、生きている者も死んでいる者も、ともに交わりの中にあるというのが、キリスト教の信仰している「聖徒の交わり」です。

37.神が一人ひとりの人間を慈しむ方なら、なぜ世の中にこれほどの不公平があるのですか。生まれつき能力にも境遇にもハンディーキャップを負う者には、どうすれば希望のある生き方ができるのですか。

現代の日本の競争社会では、まるで人を蹴落とさなければ自分の幸福を築けないかのようですね。能力や機会に恵まれた人がどんどん昇進し、成功する陰で、それよりも多くの人が取り残され、傷ついています。このまま行けば、社会はますます冷たく、非人間的になるばかりでしょう。何とかして、神の前での人間の尊厳を取りもどさなければなりません。個人としても社会としても、信仰によるものの見かた、愛による価値観を養わなければなりません。

アウシュビッツの独房に移された囚人が、「今度の部屋は、上に小さな窓があって、そこから青空が見えます」と書いています。すべての自由を奪われた人が、ほんのわずか与えられた恵みを喜んでいる、その心に打たれます。私たちはとかく、自分の恵まれなかった所ばかりを見がちではないでしょうか。

福音書には、放蕩息子に対する父の愛をやっかむ兄とか(ルカ15・11~32)、失業者に対する主人の寛大な取り扱いを不満とする仲間とか(マタイ20・1~16)、特別に愛された「小さい者」をうらやむ人が登場します。でも、実は自分こそが、この特別に愛された「小さい者」なのだ、という認識がないと、このたとえ話の意味が理解できません。

なぜ不公平があるのか、私にはわかりません。わかることは、神が一人ひとりをかけがえのないものとして愛してくださっていることです。神の花畑には、さまざまな花が咲いていて、そこには大きな花も小さい花もあります。一つひとつが違っていて、しかも一つひとつが精いっぱいに神を讃えています。

ハンディーキャップと言えば、人は多かれ少なかれみな、過去の重荷とか、人生の宿命とも呼ぶべきものを負っています。それは自分自身が犯した過ちから来るものもあれば、人から受けたもの、あるいは生まれながらにして負わされたものもあります。そのような傷が自分の中にうずいていたり、うらみの気持ちがメタンガスのようにフツフツと心の奥に吹きだして、全身を毒してしまうことがあります。

傷ついた世界を思うとき、私はますます聖霊の働きを祈らざるをえません。「聖霊」とは、すべてを新しくする神の創造の息吹きです。聖霊が傷ついたものを癒し、曲がったものをまっすぐにし、冷えたものを暖めてくださるように。

私は山が好きで、疲れたときには山歩きに出かけるのですが、大自然の新鮮な空気は、まるで体の細胞の一つひとつをよみがえらせてくれるような気がします。ちょうどそのように、神のいのちの息吹きは私たちを清めてくださるものです。

福音書は、キリストが盲人の目を開き、足の不自由な人を立たせた話を伝えています。キリストとの出会いは現実を変革します。キリストと結ばれることによって、たとえ一瞬の奇跡としてではなくても、ちょうど清水がドブ川に流れこんで流れを清めるように、聖霊は少しずつ私たちを新たにし、神のいのちに生かしてくださいます。こうして地のおもてが新たにされることを祈っています。

38.家族に不幸が続いて、打ちのめされています。私が罪深い者だから神様はかえりみてくださらないのでしょうか。

人生は、悲しいものですね。日頃は「ねあか」と人に言われる私なのですが、最近は身近の人たちにいろいろ不幸があって、人生がいつもばら色ではないことをつくづく感じさせられています。親しい知人ですが、まだ働きざかりなのに不治の病にかかっていることを宣告されてしまった人がいます。私の学生にも、身内の者が難しい病気に取りつかれていて、その世話をするために休学せざるをえなかった人がいます。また、かつての教え子で、肉親に死に別れて一人ぽっちになってしまった人がいます。身内の看護に疲れて、これから先やっていく力がないという人もあれば、これから自分がどのように生きていったらよいかわからない、という人もあります。お話をうかがうたびに、私には何もしてあげられない、その非力さを悲しく思います。

思えばイエスは、その生涯を通じて、貧しい人、傷ついた人、見捨てられた人、罪びととして蔑まれた人の友でした。福音書を開くと、イエスが娘の回復のために必死にすがる母親の願いを聴きいれ(マルコ7・24~30)、また亡くなった一人息子の棺のそばで泣くやもめをあわれんで死者を蘇らせた(ルカ7・11~17)エピソードが伝えられています。

このようなイエスの生きざまを、マタイ福音書の記者はイザヤ書の言葉を使って、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)と描写しています。

そして何よりも、イエスの十字架はそのことを私たちに告げています。イエスの十字架上の苦しみは実は私たちのためだったのだ、と信じるのがキリスト教の信仰です。貧しい者への父の愛を運ぶ器であったイエスは、神と人々への愛のために、自分に迫った死の宿命をあえて受けいれました。小さな人々のために喜んで自分のいのちを捧げました。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」(ルカ22・19)という最後の晩餐の言葉は、イエスの十字架の意味を教えてくれます。この言葉は、今でも地球上でミサ(主の食事の儀式)が祝われるところで、いつも繰り返し語られています。そして、私たちが苦しみと憂いにうちひしがれるとき、決して一人ぽっちではない、イエスが私たちの苦しみと悩みを一緒に担ってくださるのだ、ということを告げています。

キリスト教の信仰は、イエス・キリストがただ単に二千年の昔、あのイスラエルの地で人々に出会っただけでなく、神の栄光の中にあげられた主として、歴史を通じて、いつもどこでも神の愛を仲介し、苦しむ人とともに苦しみ、悩む人とともに悩み、それに耐えるための慰めと力を与えておられることを信じています。だから私は、私にさまざまな苦しみを打ち明けてくれた人々のために、主キリストが彼らを助けてくださるようにお祈りしています。それより他に何もしてあげられないのです。でも、人の助けではなく、主の助けをいただくことこそ、人生の厳しい旅路を歩む弱い人間にとって、最終的にはいちばん大きな慰めと力ではないでしょうか。

「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる」(詩編55・23)。

39.神が真にやさしい方なら、なぜこの世の中には苦しみがあるのですか。

なぜこの世に苦しみがあるのか、それはキリスト者にとっても、永遠の謎です。私たちが確実に知っていることは、神が決して私たちの不幸を望むような方ではない、ということです。だから私は、苦しみがなぜあるのか、その意味は今は私たちに隠されていても、神がいつか教えてくださるだろうと信じています。

家族の健康や仕事の成功を神に祈るのは人間の常ですが、あまりにも自分中心の祈りに堕してしまってはならない、と私は思います。どうしてかわかりませんが、神はちょうどご自分の愛しておられる者を試練に会わせる、ということをときどきなさるからです。

それから、どうか身内に不幸が続いたからと言って、自分の罪のせいなどになさらないでください。私たちが善いことをしたから報いとして幸せになるとか、悪いことをしたから罰として不幸になるとか、そのように考えるのは実は御利益信仰の裏返しです。それは、私たちが勝手に想像した神であって、イエス・キリストが告げた父なる神ではありません。

福音書は、イエスがゲッセマネの園でもだえ苦しんだ姿を伝えていますが、イエスもやはり、迫ってくる苦しみから自分を救ってくださるように神に祈りました。「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)。読むたびに、胸につきささるような、悲痛な祈りです。

そこには、祈りにともなう情緒の高まりや感動はありません。むしろ、にがみ、悲しみ、すさみしか感じられません。人間のほうからは、その意味を理解できない、何も報いを期待できない、そのような絶望的な闇の中で、ひたすら神のみ心を求める、そのときにこそ、祈りは御利益を求めた密かな利己心から解放されて、神への真の礼拝となります。

キリスト者は、神がこのイエスの祈りをよみせられ、このイエスのまったき献身をいわば道具としてお使いになって、これを通して人々の幸せのための救いのわざをなさったことを信じています。だから、私たちには理解できないこの世の苦しみも、このキリストの苦しみと合わせて捧げられるときに、決して無意味な苦しみではないのだ、ということを信じています。

全能の神は私たちの想像する善悪の価値判断を越えて、また因果応報の秩序を越えて、人知を越えた永遠のはからいをもって、今は耐えがたく思われるこの世界の試練を、いつかきっと新しい世界の建設のために役立ててくださるでしょう。きっとこれを、その人のしあわせに向けて、またその人と結ばれているすべての人々のしあわせに向けて、新しく造りかえてくださるでしょう。

40.身障者の方々のためにボランティアをしておりますが、人間が「神のかたどり」なら、どうして自分はこのような体に生まれてきたのか、と聞かれました。どう答えればよいのでしょう。

創世記には、「神はご自分にかたどって人を創造された」(創一・二七)と言われます。そして、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創一・三一)とも言われます。それなのに、この世の中にはどうして生まれつき体の不自由な人がいるのでしょう。どうしてたくさんの悲しみと不幸があるのでしょう。これは苦しい問いです。そして、理屈ではなくて、重荷を負って毎日あえぐようにして生きている人たちが現にいて、その人たちからこの苦しい問いを聞くとき、何と言ってお答えすればよいのか、途方にくれてしまいます。

確かに、私たちの世界はさまざまなかたちで傷ついています。被造物は苦しみにうめいています。この現実の世界が、神のお望みになったままの姿であるとは思えません。ユダヤ教とキリスト教の伝統では、人間による自由の乱用のために創造の秩序が破られ、世界は虚無の力に服するようになったのだ、と教えられています。

しかし同時に、キリスト教では、神がイエス・キリストの死と復活を通して、この創造の秩序の破れを回復し、いつの日にか完成へと導いてくださる、ということを信じています。これが聖書で「あがない」と言われる言葉の意味です。

十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをみ見捨てになったのですか」(マルコ十五・三四)と叫んで死んでいったイエスに、キリスト者は人間の苦しみの極みを見ます。そこに、私たちの苦しみが神によって担われているのを見ます。そして、このイエスが死者の中から復活させられたということは、神が世界の傷を癒し、救おうとされる、その決定的な意志表示のわざです。パウロが言うように、イエスの復活は、新しい天地創造のいわば「初穂」(一コリント十五・二十)でした。それは、終わりの日に神が世界を新たにされることを約束し、イエスに結ばれたすべての者が新しい生命をいただくことを保証するできごとでした。

キリスト教の信じる神は、少なくとも世界の苦しみと不幸を傍観している神ではありません。イエスの十字架を通してご自身を表される神は、不幸な人間の身の上に心を痛め、人間の苦しみを共に苦しんでおられる方です。私たちの毎日の苦しみは、キリストの苦しみと合わせて捧げられるときに、きっと世界を回復しようとなさる神のわざに参加するものとなるでしょう。

神の創造のわざは、まだ途上にある、と言わなければなりません。神はあちらこちらに希望のしるしとして部分的な成就を与えてくださるのですが、まったき完成は未来にあります。私たちはその完成を、苦しみの中で待ち望んでいます。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体のあがなわれることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ八・十九~二四)。

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