上智大学

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Q&A 21 ~ 40    Q&A 41 ~ 60    Q&A 61 ~ 73

1.キリスト教のことを知りたいと思うのですが、どうしたらよいのでしょうか。

そうですね、キリスト教のことを知るための一番の近道はやっぱり、その原点となっているものを知ることではないでしょうか。つまり、キリスト教の原点とは、イエス・キリストです。イエスがどのような人であったか、どのようなことをなし、どのようなことを語ったか、そして、どのように生き、どのように亡くなったか、これを勉強することがまず大切だと思います。

そして、イエスの生涯と思想を勉強するためには、何よりもまず聖書を読まなければなりません。聖書の中でも、イエスの言葉と行いを伝えている「福音書」から始めるのがよいでしょう。ただ、聖書の解釈というものは、実にさまざまな形でなされていて、ときには非常に独断的なものもありますから、初めはやはり、伝統のあるキリスト教の教会で、きちんとした指導を受けた方がよいかもしれません。近くの教会を訪ねて、そこでキリスト教入門の講座とか勉強会などがあったら、それに参加するのが手っ取り早いのではないでしょうか。 

2.信者になるためには、むずかしい勉強をしなければならないのでしょうか。

そんなことはありません。頭で理解することと信仰することとは、ひとまず別のことですから。どんなにたくさん勉強をしても、どうしても信じられないという人もいますし、逆に勉強などそれほどしなくても、心で、いわば直観的に信仰のことが分かる人もいます。ただ私は、もし本当に信仰を深めて、信仰の上で成長しようと思ったら、やはりそれぞれが自分の事情の許すかぎり、きちんと勉強をすることをお勧めします。人間というものは、頭だけでもなければ、心だけでもありません。ちょうど車の両輪のように、理性と信仰心との両方のバランスが必要なのではないでしょうか。やたらに情熱に流されたり、間違った方向に走ったりしないように、信仰は理解を必要としています。

さて、どれくらい勉強すればよいのかと言えば、それは人によって違うでしょう。その人の興味とか、性格とか、年齢とか、健康とか、時間のゆとりとか、それぞれの事情によって、それぞれに異なっていると思います。教会の入門講座などに参加なされば、信者になるために十分な準備ができているかどうかは、指導しておられる神父様や責任ある方々の判断によるでしょう

3.クリスチャンは酒もタバコものまないと聞きます。そのように厳しいモラルを守れない人はクリスチャンにはなれないのでしょうか。

クリスチャンが酒もタバコものまないというイメージは、たぶんキリスト教のある教派の、とくにアメリカから日本に伝えられた、敬虔なクリスチャンのグループの教えに由来するのでしょう。その人たちを私は尊敬しますが、でもクリスチャンが皆そうだ、と言うわけではありませんよ。ドイツに行くと、ビールやワインが修道院付きの酒倉で造られていたりして、昔から修道院で造る酒はおいしくて有名でした。 

私は酒もたばこも好きですが、だからと言って弁解のためにこんな話をするのではありません。だいいち、イエス自身がどうだったかと言えば、イエスは、どんな人とも屈託なくつきあって、泣く人とともに泣き、笑う人とともに笑いました。当時の敬虔なユダヤ教徒からは、「大食漢で大酒のみだ」(マタイ11の19)とさえ非難されています。だからキリストの教会は、本来はどんな人にも開かれたものであって、決して上品なエリートたちの集まりではないはずです。きれいに殺菌した蒸留水はおいしくないですね。そのような人間味がなくてつまらないものを、キリスト教だと思わないでください。

4.教会と聞くと、まじめで、熱心な人たちの行くところのような気がして、つい足が鈍ります。意志の弱い、怠け者には信者になる資格がないのでしょうか。

いや、ここにも同じような誤解があると思います。やはり日本のクリスチャンには、まじめで熱心な人たちが多くて、それだからこそ評価されてもいるのでしょうけれど、やはり土着しないで伸び悩んでいる理由も、そのあたりにあるかもしれませんね。そもそもイエス自身は、むしろ弱い人、貧しい人、病んでいる人、身寄りのない人、罪を犯して自分でも駄目だと思って落ち込んでいたり、他の人からも白い目で見られている人、社会の片隅に追いやられている人のところに進んで出かけていって、この人たちの友となりました。聖書には、しばしばイエスが罪びととして嫌われた人々と交わったことが伝えられています。当時のユダヤ教のエリートたちからは、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15の2)と批判されています。食事をともにするということは、ユダヤ人にとって、ただ一緒に食べるというだけでなく、特別に親しい交わりを意味していました。いわば運命をともにする、ということを表していました。 

イエスはこのように、弱い人々の友となることを通して、父なる神の心を代弁したのですね。神はりっぱな人、品行方正な人ではなく、まさに弱い人、日陰にいる人のことを思い、そのような人が御自分のもとに帰ってくるのを待ちわびておられます。 

そして、イエスと出会った人は、イエスを通して変えられました。新しく出発する勇気と力を与えられて、まったく違った生き方をするようになりました。確かにイエスは自分に従ってくる人に、悪を捨て、神を仰ぐ生き方を要求しましたし、教会は信仰者としての生き方を求めます。でも、それは自分の意志の力でやりとげるものではありません。むしろ恵みによって、どのような意志の弱い人もそのような生き方ができるようになる、そのような生き方を呼びかけられている、ということです。

5.教会の講座などに出て解説をうかがうと理解できるのですが、聖書を自分ひとりで読むとよくわからないし、なかなか興味を保つことができません。聖書を読む方法を教えてください。

自分の時間と状況のゆるすかぎり、聖書の講座や研究会に出たり、解説書を読んで学ぶということは有意義だと思います。生涯学習のつもりで、ゆっくり、少しずつ、気長に勉強してください。 

しかし、聖書の勉強をするときに、個々の個所をどう解釈するかということよりも、もっと大切なことがあります。それは、聖書の読みかた、理解のしかたを学ぶことです。読み方をしっかり身につけておけば、その後は自分ひとりで聖書を読み、そこに人生の指針や精神的な糧を汲みとることができるでしょう。 

私自身が心がけていることを、お話ししておきましょう。私はまず、著者が何を言いたかったのか、その当時の状況の中で何を告げようとしていたのかを理解しようと努めます。そして次に、その記述が今日の私たちにとってどのような意味をもつのか、自分が置かれている具体的な状況の中でどのようなメッセージを告げているのかを考えます。 

知的な興味の対象として勉強するだけでなく、聖書を祈ること、祈りの中で聖書を読むことをお勧めします。私たちの毎日の生活は、ともすれば忙しく追いまわされ、ゆとりに欠けがちです。でも、これを真に意味のある生活としたいものです。そのためには、朝起きるときとか、夜寝る前とか、ほんのわずかな時間でよいですから、ある決まった時間に、神の前で静かに考える時をつくればどうでしょうか。そして、聖書をひもとき、ほんの一節か二節でよいから、静かに読んで、これを自分に対する神からの呼びかけとして受けとめてみればどうでしょうか。私は、それがいちばん深く聖書を理解する道だと思います。

6.神を信じることは必要なのでしょうか。神を信じなくても、支障なく生きていけるのではないでしょうか。

はたして本当に支障なく生きていけるかどうか、それは問題です。表面的には幸せそうに見える人でも、隠れた苦しみを背負って生きていることがありますし、無神論者だと自負している人でも、やはり人生の意味をまじめに問い続け、隠れた神への憧れを持ち続けていることがあるのに、しばしば気づかされます。キリスト教の立場から言うと、神は一人ひとりの人間をお造りになって、しかもご自分のいのちに与からせようとして招いておられますから、一人ひとりの人間の心に、ご自分への憧れを植え付けられました。だから人間は、本当に人間らしく成長するためには、神のことを知らなければならないし、神に向かって成長するときに初めて幸せを見いだすことができると思います。

7.どうして神が本当に存在すると言えるのでしょうか。

はたして神は存在するか--これは、たぶん人類が地上に現れてから、いつも繰り返し問われてきた問いかもしれませんね。まず人は、何を指して「神」と呼んでいるのでしょう。間違った「神」のイメージを持ったとしたら、そんな神は存在しない、自分はそんな神を信じられない、と考えてしまうかもしれません。

それでは、「神」とは何なのでしょうか。人は神について、さまざまに哲学的、理論的に思索することもできると思います。でも私はここで、ごく率直に、キリスト教が信じる神とはどういう方なのか、ということをお話ししましょう。

イエス・キリストは、いつも「父なる神」のことを語りました。そして、その父との親しい交わりの中に生きました。父から自分の存在のすべてを受け、父の意志を探し求め、これに従うことを一生の課題としていました。イエスによれば、神とはこの世界と私たちの一人ひとりをお造りになった方です。一人ひとりの試行錯誤の歩みを心痛めつつ見守っておられる方です。一人ひとりを御自分のいのちにあずからせようと招いておられる方です。もちろん神は人間を、自由意志のない人形として造られたのではありません。人間が自由に神を求め、愛し、そのいのちに参与することを望まれました。そして人間の心の奥底に、御自分に対する憧れを植えつけられました。だから、人間は生まれながらにして、神を求めます。そして、神に向かって歩むときに初めて、自分の道が正しいのだという、自分自身に対する肯定と喜びを見いだします。でも、神以外のどのような価値を求めて生きても、決して真のしあわせを見いだしません。

さて、そのような神がどうして存在すると言えるのでしょうか。この御質問には、1+1〓2というような、だれにも有無を言わせない、客観的な答えを出すことはできないと思います。むしろ、それは人の生きかたにかかわる問いではないでしょうか。人は自分の生きかたを変えずに、神について考えたり語ったりすることはできません。ひとたび「神は存在する」と考えたなら、その瞬間に人は自分の生きかたを変えざるをえないという、いわば生きかたの決断が求められる問いではないでしょうか。

私たちはみな、この世に生を受けているかぎり、人生の意味を問います。自分はなぜ生きているのか。何のために生きているのか。まじめに生きようとするかぎり、そう問わざるをえません。さて、そのように問うこと自身が無意味なのでしょうか。自分が生きていることは、単なる偶然なのでしょうか。不条理なのでしょうか。

それとも、キリストが告げたように、自分がここに存在するのは神のいのちにあずかるべく、神によって造られたからなのでしょうか。もし、あなたが、そのように考えたとします。自分がここにあるのは偶然ではないのだ、自分がこの問いに目覚める前に、自分を愛し、自分の存在を望まれた方がおられるのだ、自分はその方によって、無から存在へと呼び出されたのだ、そのように考えたとします。そうしたら、あなたは実は、すでに信仰者の生きかたを選び取ったのです。そして、この生きかたを選び取って、神に向かって歩むときに、あなたがそれまでとは質の違った生きかたをしていること、もっと大きな希望、もっと大きな喜びに生かされていること、そして、もっと生きいきとして、もっと愛情深く、もっと人間として成長させられていることを感じるとすれば、それこそあなたの選び取った道、あなたの下した決断が正しかったのだ、という証拠ではないでしょうか。

8.神とか超越的なものがあることは信じられるのですが、なぜイエス・キリストでなければならないのでしょうか。日本には伝統的な宗教があるのですが、キリスト教以外には救いはないのでしょうか。

私は、キリスト教以外に救いがないなどとは決して考えていません。神はすべての人間をお造りになり、すべての人間の救いをお望みになっておられるのですから、どんな人であれ、一生けんめい求める人は神に向かっているし、神を見いだすと思います。ちょうど山から流れる水が、さまざまな川を通っても、最後は同じ海に流れこむように。

でも、実はキリスト教と他の宗教との関係を説明しようとすると、これはむずかしい問題で、そう簡単に片づけられませんね。だから、はたしてキリスト教以外に救いがあるかどうかよりも、むしろ自分はキリスト教から何を学ぶことができるか、キリスト教の中に自分の求めているものが本当に見いだせるかどうか、それを問う方が大切ではないでしょうか。もともとクリスチャンになった人はだれも、こういう問題をすべて解決したから信じるようになったのではなくて、むしろほとんど偶然に、何かの機会でキリスト教のことを知り、あるいはだれかと出会って信仰に入ったのではないでしょうか。

例えば、どこかでバーゲンセールがあって、そこで何かすばらしいものがとても安く売られているとします。それを見たときに、はたしてこれがいちばんよいものなのだろうか、他のお店に同じようなバーゲンがないだろうかとか考えてると、機会を逸してしまうかもしれません。本当にこれが自分に合っていると思ったら、その機会をつかむということは、多かれ少なかれ、どの人間もすることでしょう。

あるいはまた、山に登るとします。もちろん前もって道を選ばなければなりませんが、はたしてこの道がいちばんよいものだろうか、他にも道がないだろうかを詮索して、すっかり解決するまでは登らないと言うのであれば、いつになっても歩きだせないでしょう。

むしろ歩きだしてみて、自分がその道で喜びを感じるなら、それを続けたらよい。
同じように、せっかくキリスト教を知る機会があって、その興味があるなら、まずキリスト教のすばらしいものを学んでみたらいいと思います。そこで自分が深い喜びを感じる、自分の心の奥底にある求めが満たされる、自分が変えられていく、そしてもっと生かされていくことを体験するときに、それはもう理屈ではなくて、これこそ自分にとってただ一つの道だ、と確信するようになるのではないでしょうか。

そして私は、キリストの福音には人間の心のもっとも深いところにある憧れに応える、すばらしい宝があること、そのためには他のすべてを投げうってもよいような、かけがえのないものがあることを確信しています。

9.聖書に言われる天地創造は、進化論と矛盾しないでしょうか。

おっしゃるとおり、旧約聖書のいちばん始めの書『創世記』には、神がどのように天地を創造したか、ということが述べられています。神が第一日に光を創造し、第二日に空と水を創造し、第三日、第四日と続けて、第六日には人間を創造した、と述べられています。これは、古代人の神話であって、現代の自然科学の考えかたとは違います。

でも、現代の聖書学の研究は、聖書が決して自然科学の真理を語るものではなく、むしろ信仰の真理を語るものであることを明らかにしています。聖書を書き記した人々は、当時のものの考えかたに立って自分の信仰を語りました。だから聖書の言葉から自然科学の結論を取り出すことは、正しくありません。また、聖書から自然科学の研究成果について賛成も反対もできません。

創世記の述べることは、神が世界の創造主であることです。先に述べたように、そもそも人間は、自分自身がこの世に生を受けているという不思議に目覚めたとき、自分がどうしてここに生きているのか、自分の生きている意味は何なのか、と問わざるをえません。

そして、聖書を書き記した人々は、神こそが自分をお造りになった方なのだ、自分は神の愛に応えるために生きているのだ、ということを感じとり、この自分の信仰を、天地創造の神話を使って表現しました。だから、私たちにとって大切なことは、神話的な記述の中に、人間の生の本質にかかわる真理を読みとることです。

でも、聖書学の発達していなかった時代には、ガリレオの地動説さえ聖書の真理を否定するかのように考えられたことがあります。テイヤール・ド・シャルダンという人の名をお聞きになったことがあるでしょうか。この人は北京原人を発見した考古学者で、進化論の推進者ですが、カトリックの神父でした。シャルダンは、これまで発掘されたたくさんの生物の化石が、下等なものからしだいに高等なものへと進歩していることを見て、生命が進化という法則によって動かされているのだ、ということを疑うことができませんでした。そして、人間も生物の進化の過程で、少しずつ準備され、生まれてきたのだ、と考えました。実はシャルダンの考えかたは、当時はカトリック教会から危険思想として白い目で見られたのですが、さいわい現代では教会の内外で、そのすぐれた洞察と深い信仰は高く評価されています。

シャルダンが言うように、どのように無生物から生物が生まれ、生物がしだいに高次の生命体に進化し、ついには精神が生まれたかという、何十億年の過程に思いを馳せると、そこには人知をはるかに越えた生命の神秘を感じざるをえません。それをすべて偶然として説明しない限り、私には神の存在の否定どころか、むしろ背後にある創造主の存在を感じさせます。私も進化論を疑いません。だからこそ一層、天地の創造主である神を信じています。

10.人が過去に大きな罪を犯したとしたら、どのようにすればゆるされるのでしょうか。どのような償いの方法があるのでしょうか。

福音とは、「喜びの知らせ」ということです。イエスのもたらしたものは、罪を犯した者への「ゆるし」でした。確かに罪は人間を傷つけ、ゆがめ、不幸の中に閉じこめてしまいますが、その不幸をいちばん心苦しく思っておられるのは、実は神御自身なのですね。

神は罪を犯した人間が御自分のもとに立ちもどってくるのを待っておられます。この神の慈しみに身を委ねる者をゆるし、その傷を癒し、罪のしがらみから解放してくださいます。

そして、この解放は、ただ罪を犯した人だけでなく、その罪のために傷つけられた他の人々、社会全体にも及びます。それは人間には償いようもないことかもしれませんが、キリスト教の信仰は、イエスがすべての人の罪のために命を捧げてくださったこと、それを通してイエスと結ばれるすべての人が罪のしがらみから解放され、新しい命をいただくことを信じています。この世界が、全能の神の救いのわざによって新しく造り変えられることを信じています。

11.キリスト教は妊娠中絶を厳しく禁じていると聞きますが、そのような不幸な過去を持つ人がいたら、その人に救いはないのでしょうか。

仏教では「一切衆生の救済」と言って、どんなに悪いことをした人も仏の慈悲にすがれば救われると教えているのに、キリスト教が謹厳な宗教のような印象を与えているのはなぜなのでしょう。でも、イエスはむしろ、一匹の失われた羊を探して九十九匹を野に残していく羊飼いのたとえを話したではありませんか。父なる神は、一人ひとりの身の上を心配しておられる方です。一人ひとりの救いを、だれにもまして望んでおられる方です。たとえ、どんな過ちを犯したとしても、それでもって見捨てられる者はいません。

大切なことは、絶望したり自暴自棄にならないことだと思います。自分の罪深さをありのままに認め、しかも、そのような自分を大切にしてくださる方のいらっしゃることを思って、その方のもとに帰ること、このことをイエス・キリストは教えました。

確かに妊娠中絶は、大きな罪です。避けなければなりません。でも、もしそのような不幸な罪を犯してしまった人があったとしても、その人に救いがないなどと、決して考えてはなりません。イエス・キリストは世界の罪を背負って、十字架の上で命を捧げてくださったからです。キリスト教の信仰は、いつの日か神の国が完成されるとき、この傷ついた世界が癒され、清められ、闇に葬られた人の命をも含めて、神の永遠のいのちに生かされ、回復されることを信じています。

12.ある人がどうしても赦せません。キリスト教では、人を赦さないと自分も神から赦していただけないと教えていますが、私のような者には救いはないのですか。

キリスト者は「主の祈り」の中で、「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」と祈ります。この祈りはマタイ福音書の「山上の説教」から取られたものですが、新共同訳によれば、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6・12)と言われています。また、これに続いて、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6・14~15)と言われています。

確かにこの言葉を字句どおり読めば、あたかも私たちが努力して人を赦すなら、神がその報いとして私たちを赦してくださる、と言うかのように聞こえます。でも、誤解してはなりません。マタイ福音書は、ユダヤ人の改宗者に向けて書かれた福音書ですから、いきおい律法主義的な表現が目立ちますが、キリストの福音の真髄を見損なってはなりません。それは、私たちが善業をなすから神がそれに報いて恵みをくださる、と言うのではありません。

むしろ福音の論理は逆です。それは、神の恵みが先に与えられて初めて、私たちが神のみ心に適う善い行いをなしうる、ということです。神の赦しが与えられるときに、私たちが変えられる、そして人を赦すことができるようになる、ということです。実はこれこそ、マタイ福音書の第5~7章に描かれる山上の説教の論理です。

「敵を愛しなさい」(マタイ5・43~48)という言葉も、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(同39)という言葉も同じです。「どうしてそんなこ
とができるだろうか」とか、「私には、そんなことはとてもできない」とか、言う人がときどきいます。しかし、これは、歯を食い縛って努力しろと、無理を要求している言葉ではありません。まして、聖人君子のふりをしろと、キリスト者に欺瞞的な態度を呼びかけているのでもありません。そうではなく、もし私たちが神の恵みに生かされていれば、自分を憎む人、自分にひどい仕打ちをする人さえも受けいれることができるようになる、ということを言っているのです。

言い換えれば、神の赦しは、私たちの互いの赦しを通して表されます。互いに赦すことは、神の赦しによって私たちが癒されていることを示します。だから、「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」という祈りは、「私たちが互いに赦しあうことができるように、私たちを造り変えてください」という祈り、「私たちが互いに赦しあうとき、そのことを通して、そこにあなたの赦しが表されますように」という祈りです。

私たちがなかなか人を赦せないからこそ、一生けんめいに祈らなければなりません。「

われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」と。それは、ときには血を吐くような苦しい祈りかもしれません。肉なる存在である私たちは、ときには癒されがたく深く傷ついているからです。過去に受けた仕打ちを思いだし、その人のことを思い浮かべるだけで、怒りや恨みの心がフツフツとたぎってくるからです。だからこそ、私たちにはまず、自分自身の癒しが必要です。私たち自身が神の赦しと癒しをいただき、根本的に変えられて初めて、人に対して違ったかかわり方ができるようになります。

13.過去に犯した罪のことを思うと、今も心が暗くなります。自分の醜さを考えるたびに、自己嫌悪に陥ります。私のような者にも赦しは与えられるのでしょうか。

イエスは生涯を通じて、罪びとたちの友でありました。しばしば徴税人や罪びとと食事を共にした、と言われていますが、食事を共にするということは、当時のユダヤの社会では、非常に親しい交わり、運命さえも共にすることを意味していました。イエスはそれを通して、貧しい者をご自分のいのちの交わりに招いておられる父なる神の心を代弁したかったのです。

そして、自分の死を予見したイエスは、弟子たちと共に別れの食事をしましたが、それは神の国での宴、神の子らの交わりを先取るものでした。イエスは自分のいのちを捧げることによって、その基礎を据えようとしたのです。だからこそ、イエスの死と復活を体験した弟子たちは、主の言葉に従って、共に集まって主の記念の食事を行いました。この食事の儀式、「ミサ」を通じて、教会がしだいに形造られました。ミサは、今も全世界の教会で、ずっと継続して祝われていますが、その中で繰り返される主の言葉があります。「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血である」。

イエスが説いた神は、決して天の高みに座って、私たちの行動をチェックして、善いことをした者に報いを与え、悪いことをした者を裁く、というような方ではありません。イエスは、あの放蕩息子のたとえを語って(ルカ第15章参照) 、神は罪びとがご自分のもとに立ちかえるのを一日千秋の思いで待っておられる、と教えました。

確かに罪は、神のいのちにあずかるために造られた人間の本来の姿を破壊するものです。人間はその結果、不幸になってしまいます。わずかな毒が全身を麻痺させてしまうように、罪は神の子らの生命を窒息させ、人を闇に閉じ込め、喜びを奪います。でも、父なる神は、そのようにご自分から離反して、不幸になった人間のことを傍観しておられるのではありません。神は人間の不幸を共に悲しみ、人間が立ち戻ってくることをだれよりも望んでおられる方です。そしてキリスト教の信仰は、神が私たちを救うために、ご自分の愛する子さえ惜しまずに死に渡された、と信じています( ローマ8・31~39参照)。私たちの罪に怒っている神に、私たちが和解を求めるかのように想像するのは、正しくありません。むしろ、和解を望み、これを私たちに差し出しておられるのは、神のほうです(2コリント5・16~21参照)。神は私たちが我執を捨てて恵みに心を開くこと、それによって新しいいのちに生かされることを望んでおられます。

自己嫌悪というものは、実は決して謙遜ではなく、隠れた傲慢と我執から来るものです。つまり、自分を世界の中心に据えて、自分はこうあるべきだと、あってほしい自分に固執するから、それと食い違っている現実の自分に我慢ができないのです。でも、もし自分を眺めるのではなく、ひるがえって神に目を注ぐなら、そのような自己嫌悪はすっとんでしまうでしょう。なぜなら、神こそ私の醜さをいちばんご存じなのに、この神が私を裁くことなく、そのままで受け入れてくださったからです。その醜い私を救うために、ご自身の子さえも捧げてくださったからです。真にそのことに目覚めたなら、自分の醜さとみじめさこそが、むしろ誇りになるでしょう。

14.キリスト教では、教会堂の正面に十字架がかかげられているのですが、やさしい仏像などに馴染んでいる日本人の感覚には、あまり凄惨で、受けいれにくいのではないでしょうか。

それは、おっしゃるとおりかもしれませんね。どの宗教でも、およそ信仰の表現というものは、長い歴史を通して信仰してきた民族のメンタリティーに影響されるものです。キリスト教も例外ではありません。主としてヨーロッパで発展したキリスト教は、十字架像に限らず、信心の形態とか、典礼とか、やはりヨーロッパ民族の生活感情によって刻印されている、と言ってもよいでしょうね。そこには私たちが学ぶべきすばらしい伝統もあれば、やはり私たち日本人には馴染めない部分もあって当然でしょう。

たとえば、ギリシャ正教と呼ばれている、東ヨーロッパやロシアで発展した教会では、キリストや聖人たちの姿を表すのに、立体的な御像を用いず、イコンと呼ばれる、平面の聖画を用いるのが特徴です。それも、復活の主キリストを強調して、十字架の場面でさえ、しばしば栄光を帯びた姿で描かれています。ひょっとしたら、日本人の感覚には東方教会のイコンの方が馴染めるかもしれません。

けれども、それはどちらかと言えば感情の次元の問題ですね。十字架像をどう表現するにせよ、キリストの十字架がキリスト教の信仰の中心であることに違いはありません。教会は必ず十字架を印としてかかげていますし、クリスチャンは祈りのたびに十字を切ります。十字架こそ、私たちの世界に救いをもたらしたもの、私たちを罪と死の支配から贖ったもの、神の愛が端的な形で表されたものと信じるからです。 十字架の上で苦しむイエスの姿を仰ぐとき、キリスト者はそこに、私たちの苦しみを担ってくださる神の慈しみを読み取ります。だから、それが私たちのためだったと知るとき、その姿がみじめであればあるほど、ありがたく、かたじけなく感じられます。私たちが苦しい病の床にふしているとき、あるいは受けた痛手にあえいで、再び立ち上がる勇気も希望もなく闇の中に沈んでいるとき、十字架こそが真の拠所、闇に輝く光となってくれます。

15.福音書を読むと、イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいますが、イエスが神の子なら、なぜこのようなみじめな叫びをあげたのでしょう。

この御質問は、もう大昔から、何度も何度も繰り返されてきたものです。創価学会の折伏の手引書にすら、キリスト教の誤りを指摘する一つの論拠として挙げられていて、イエスが自分の敗北を認めているではないか、というのですね。でも、キリスト教を敵視する人だけでなく、むしろキリスト者たちにとって、これはあまりにもみじめで、痛ましい言葉で、もう福音書の書かれた時代にすら問題となっていました。だから、マルコやマタイの福音書はこの言葉を記していますが、イエスのやさしい姿を描こうとするルカや、神の子の荘厳な死のありさまを描こうとするヨハネの福音書では、他の言葉に置き換えられています。だからこそまた、イエスが十字架の上でどれほど苦しみ、孤独のうちに死んでいったか、これは歴史の事実だと言ってもよいでしょう。

実は、この言葉は旧約聖書の中に伝えられている詩編二十二の冒頭の言葉ですね。ユダヤ人たちは、詩編をほとんど暗記していて、絶えず自分たちの祈りのときに唱えました。

詩編にはさまざまな種類があって、喜びのときに神を讃えるものもあれば、闇と絶望の中で神に嘆きを訴えるものもあります。イエスも日常の祈りの中で、詩編を口ずさんでいたと思われます。

詩編二十二は、苦しみの中で神を呼ぶ信仰者の祈りです。自分にのしかかる逆境に呻きながらも、信仰者はこれまで与えられた神の導きを思い起こします。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。そして、これからも神がきっとよくはからってくださることを信じます。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません」。苦しみのどん底で父に呼ばわったイエスの心がわかるような気がします。

そしてキリスト者は、神がこのイエスを決して見捨てられたのではないこと、むしろ神はイエスとともにおられ、イエスの死を御自分のものとして苦しまれたのだということを、「復活」の信仰を通して知っています。しかも神は、このイエスの苦しみをいわば媒体として、すべての人間の苦しみ、惨めさと孤独を担ってくださったのだ、だからイエスと結ばれている者には、もはや見捨てられた死はないのだ、死さえも私たちを神から遠ざけ、私たちの生の意味を破壊することはできないのだ、このようにキリスト者は信じています。

16.イエスの死は、どうして私たちの罪のゆるしとなるのですか。人類の「贖い」のためだった、という話も聞きますが。何のことか、よくわかりません。

罪のゆるしとなる、と言うより、罪によって傷ついた世界を癒す、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。つまり、キリスト教の信仰は、イエスの死が神の救いのわざだった、と理解するところに始まります。イエスの死を通じて、罪の力に縛られた人類の悲惨を、神御自身が担ってくださった、という理解です。だから、「贖い」という古めかしい言葉も、正しく理解すれば、真実をうがっていますね。

「贖い」とは、聖書の中で用いられる非常に古い言葉で、多分に民族的な背景に結ばれています。古代の中近東の民族の間では、戦いに敗れた民族が捕虜となって、奴隷に売られることなど、日常茶飯事だったのですね。そこで、他民族に捕らわれた者、奴隷に売られた者などを、代償を払って買い戻すことが「贖い」と言われました。とくにユダヤ民族は、しばしば他の強い民族の間でいじめられ、民の指導層が根こそぎ捕らわれの身になったりして、そのような民族の危機の中で、神こそが自分たちの民族を救い出してくださるかた、まことの贖い主だという信仰を持ちつづけてきました。この考えかたがイエスを理解するときに助けとなって、イエス・キリストの死を通してなされた神の救いのわざを説明するために使われたわけです。

もともと特定の民族の歴史に結ばれた概念ですが、よく考えてみると、なかなか含蓄の深い言葉ですね。そこには 1人間が捕らわれの状態にあること、 2神が犠牲を払って救い出してくださること、 3救われた人間に自由が回復されることが言われています。

「贖い」という言葉は、イエスの十字架をとおして、私たちの傷ついた世界が癒され、肉としての存在が神のいのちにあずかるものとされた、ということを表現しています。

17.キリスト教ではキリストが復活したと言われますが、一度死んだ人が生き返ったなどと、本気で信じているのでしょうか。

ちょっと待ってください。キリスト教で言う「復活」とは、ただ死んだ人が「生き返る」、ということではありません。「生き返る」ということなら、それはこの地上の生にもう一度戻ること、人間が生まれ、成長し、老い、死んで朽ちていくという自然のプロセスに逆戻りすることになるでしょう。そうではなく、復活とは永遠の生への誕生であって、いわばまったく新しい神の創造のわざのことを言うのです。キリストの復活はキリスト教信仰の真髄をなすものですが、その言葉の意味を誤解すると、馬鹿らしくて信じられないのも無理はないでしょう。

もともと「復活」という言葉は、ユダヤ教の信仰から来るものです。イエス時代のユダヤ教では、世界の終末のときに神が天地を新しくされること、それまで死者の国で待っていた信仰者たちが復活させられて神のいのちに参与すること、こういうことが一般に信じられていました。イエスの弟子たちは、このユダヤ教の信仰を基礎にして、ここからイエスの復活を理解しました。

つまり、弟子たちはそれまでの自分たちの生き方を根底から変えてしまうような、神からの啓示のできごとを体験します。そして、その啓示の光に照らされて、ユダヤ教の信じている終末のできごとが、今すでに起こったのだ、と理解します。イエスにおいてこの終末のできごとが先取られたのだ、イエスは新しい天地創造の「初穂」とされたのだ、と理解します。これが、「イエスの復活」という言葉のそもそもの意味です。

だから、イエスの復活とは、まず第一に、神が御自分がどんな存在であるかを啓示されたできごとです。つまり神は天地の創造主であり、傷ついた世界を回復して創造のわざを完成させる方であること、無から存在を起こされたように、朽ちるべき生命を朽ちることのない永遠の生命へと高めることのおできになる方であること、御自分に信頼する者を決してお見捨てにならず、生と死を越えて信頼するに値する方であること、この方においてこそ人間の生の意味も、世界の歴史の意味も究極的に決定されるという、そういう方であることを啓示されました。

そしてイエスの復活とは、第二に、私たちの希望を保証するできごとです。それは、イエスに結ばれた者が、その復活にも結ばれて、神の国の完成のときに永遠のいのちに参与させられるのだ、ということを約束しています。この信仰こそ、キリスト者の希望の根拠となるものです。

18.聖書の述べる復活の物語を、ひとつの文学として読んでもよいでしょうか。イエスの復活は、希望のメッセージを告げる比喩としてなら美しいし、よくわかります。ほんとうに歴史的なこととして理解すべきなのですか。

もちろん聖書を文学として読むことは許されるし、多くの人がそうしていると思います。そこから人生の教訓を読みとれば、有益なことでしょう。でも、キリスト者にとっては、イエスの復活はただ単に比喩にとどまりません。それは歴史の中に起こった現実のできごとです。

問題は、イエスの復活の「歴史性」ですね。ただし、「歴史的」とはどういうことを言っているのでしょうか。頭を整理してみましょう。

もし実証的に確かめることができて、歴史学の研究の対象となる事柄だけを「歴史的」と呼ぶとすれば、イエスの復活はその意味では歴史的とは言えないでしょう。しかし、復活したイエスと出会った、と証言している弟子たちがいる事実は、歴史的です。
この弟子たちは、イエスが捕らえられ、死刑に処せられたときには、師を捨てて逃げてしまった、弱く、頼りのない人たちです。この人たちが、復活の主との出会いの体験を通して、まったく別人のように変えられ、どのような学者も反駁できないような信仰の確信をもって、力強くイエスの復活を証言しました。また、どのような権力者も弾圧できないような勇気をもって宣教し、こうして教会が生まれました。この教会が、あらゆる迫害にもめげず、爆発的な勢いで世界に広がっていきました。これは、歴史的な事実です。

この事実は、弟子たちがただ亡き師のまぼろしを見たとか、妄想にかられたとか、そのような心理的、主観的な説明だけで説明しきれるものではありません。やはり何かが本当にできごととして起こり、弟子たちに客観的に体験されたらしいのです。
 それでは、この弟子たちはいったい何を体験したのでしょうか。彼らは「復活」をどのように理解しているのでしょうか。

さいわいに新約聖書には、弟子たちの証言が伝えられています。この証言を研究して、私たちは少なくとも弟子たちが自覚している体験と、彼らが自分なりに理解している「復活」の意味を知ることができます。つまり、彼らの証言の内容は、それを信じるかどうかを別にして、歴史的、実証的に確かめることができます。

私はここで、一つひとつの聖書個所にあたって論証することをしませんが、結論だけをまとめると、次のように言えると思います。弟子たちは何らかのしかたで、生前よく知っていた同じイエスと出会いました。イエスがいまや神の栄光に上げられ、時間と空間を越えて彼らとともにあり、働いているのを体験しました。弟子たちは、全能の神がイエスを復活させられたこと、それを通してご自分を「父なる神」として啓示しておられること、イエスこそこの父を仲介する主であり、父のひとり子であること、このイエスと結ばれて私たち皆が父のいのちの交わりに招かれていることを悟りました。

復活について、これ以上のことを歴史的に証明することはできません。ここから先は信仰の問題となります。弟子たちの証言は、だれにも有無を言わせず、強制的に認めさせるようなものではありません。

だからと言って、この証言を受けいれること、つまりイエスの復活を信じることは、決して「いわしの頭も信心」という類の盲目的な信仰でもありません。人がそれを信じることができるのは、それが人の心のいちばん奥にある、人生の意味への問いに答えてくれるからです。その信仰が現実に自分の生き方を変える力を持っており、それによって自分が生かされるのを実際に体験するからです。

19.イエスの弟子たちの「復活体験」は物理的なものではなく、精神的な次元のものであると思いますが、幕末から現代に至るまで新興宗教の教祖の多くは、長い瞑想や修行の末にとつぜん照らしを受けて、宗教活動を開始したと言われています。弟子たちがイエスの復活を体験して教会を造ったという事実も、そのような「霊的な啓示」と考えてよいでしょうか。

確かに新興宗教の現象には、何らかの霊的な体験、人間を越える存在についての洞察があるのでしょう。しかし、それとイエスの弟子たちの体験が根本的に違っている点を見落としてはなりません。

つまり、弟子たちの体験したのは、生前に寝起きをともにして、親しく知っていた同一人物との出会いでした。それは十字架の上で無残に殺され、今は神の栄光に上げられたイエスです。そして弟子たちが悟った復活の意味とは、生前のイエスが彼らに告げた「神の国」の福音がイエスの復活というできごとを通して確証されている、ということです。

イエスの復活とは、キリスト教の信仰の全体を啓示するできごとです。それはまず、神とはだれであるか、またイエスとはだれであるか、さらに私たちの究極的な救いとは何であるかを端的に告げています。つまり、イエスが宣べ伝えた神の国の福音に、真実の基礎を与えるできごとです。

神はイエスを死者の中から復活させることを通して、ご自分に信頼する者を決して見捨てることのない方、生と死を越えて信じるに値する方、全能の父なる神としてご自身を表されました。また、イエスの十字架の死を通じて人間の罪、世界の傷と闇を担い、これを癒し、回復される方であることを示されました。さらに、イエスの復活において神の国が力強く始まっていることを告げ、苦悩に満ちた世界、迷いと混沌に沈む人生に、希望の保証をお与えになりました。

もちろん、キリスト教以外の宗教にも、さまざまな形で希望のメッセージがあり、人生の問いに対する深い洞察があるに違いありません。それが自分にとってどのような意味を持つのか、という問いかけをもって受けとめるのは、一人ひとりの自由です。私自身は、キリスト教の語る「イエスの復活」という希望のメッセージ以上に、自分の生きる意味への問いに答えるものを見いださないのです。

20.ある新興宗教の人から、家に不幸があるのは悪い霊に取りつかれているからだ、といわれています。キリスト教で言う「聖霊」とは、「守護霊」のようなものと考えてよいのですか。

まず、悪い霊が不幸をもたらしている、などというのは迷信です。人に取りついている霊を見たとさえいって、その霊をなだめる方法とか、まじないとかで荒稼ぎしている宗教があります。自然科学の発達した現代にさえ、そのような迷信がはびこるのは、物質主義の謳歌する社会の中で人間がやはり科学や技術だけで救われるものではないことを感じているからでしょう。

聖書の中でいわれる「霊」とは、原語では「ルアーハ」とか「プネウマ」といわれ、これは「風」とか「息吹き」という意味の言葉です。つまり古代ユダヤ民族は、神が世界を造り、生命のないものにイキを吹きこんでイキているものにする、と考えました。霊とは、目に見えない神の働き、人を生かす働きのことです。神ご自身の臨在、といってもよいでしょう。イエスの弟子たちはユダヤの伝統に立って、神がイエスの死と復活を通じて、いまや決定的なかたちで、ご自分の霊を与えておられる、と信じました。この聖霊は私たちを内から生かしているもの、時間と場所を越えて私たちをキリストと結び、またキリストにおいて互いに結ぶものです。そして、弱い私たちを助け、キリストとともに神に向かって「アッバ、父よ」と叫ばせます(ロマ書8・15)。キリスト教では、聖霊は歴史を貫いて世界に働きかけ、変容し、完成へと導くものと考えられています。

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