第2回 輝くソフィアンインタビュー 山下真理さん

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山下真理さん 国際連合広報センター所長 1988年卒業(大学・法学部国際関係法学科)

2011.04.20

日本の力を世界に発信していく その手助けができたらいいですね 山下真理さん 国際連合広報センター所長 1988年卒業(大学・法学部国際関係法学科)

山下真理さん 国際連合広報センター所長 1988年卒業(大学・法学部国際関係法学科)

山下真理さん
22年ぶりに日本に帰国
内外のギャップに驚く

上智大学を卒業後、米国の大学院を経て、そのままニューヨークの国連本部に就職。2010年7月に、東京の国連広報センター所長へ就任し、22年ぶりの帰国となりました。そのとき、驚いたのは日本国内の雰囲気が悲観一色だったこと。「内向きの日本」「追い越された日本」「停滞する日本」……などなど。「一体どうして?」と、本当に不思議に思ったものです。というのも、それまで私は国連での仕事を通じて、世界がどれだけ日本に期待しているか、身をもって知っていたからです。
例えば日本に帰国する前に、国連ネパール政治ミッションで政治室長を務めましたが、「日本の方ですか? お会いできてうれしいです」と、温かく迎えてくれました。ネパールは昔から親日派が多いお国柄で、日本はODA(政府開発援助)でのサポートを行ってきました。そのほか、アフリカ、東欧、アジア、中南米など、私が紛争後の選挙支援や選挙監視などで訪れたさまざまな国でも、日本への大きな期待がありました。
世界の見方と日本国内の意識との大きなギャップ。国連で働く私にとって、これは非常に残念なことです。国際社会に貢献するだけの技術や経験と創造力、さらに信頼感など、日本は多くのものをもっているのです。熟成した日本の力をもっと世界に発信していく、そんなお手伝いもできればと思っています。

“国連一筋”の学生時代 猪口先生に鍛えられる

私が上智にいた1980年代は、まだ外向きのエネルギーであふれていた時代でした。特に上智には時流に左右されない建学の精神があり、その眼はしっかり世界に向けられていました。私は高校のときから国連志望で、上智の国際関係法学科に入ったのも、国連職員になるという夢に直結すると信じていたからです。
父が日本人で、母がフィンランド人。しかも父の仕事が外交官だったため、大学に入るまでは、その半分が海外での生活。国際的な仕事を目指すのは自然の流れでした。その当時は、後に国連難民高等弁務官になられる緒方貞子先生(現・国連協力機構理事長)が上智で教鞭をとられていました。緒方先生の授業はもちろん受講しましたし、先生が顧問をしていた学生サークル「模擬国連」にも所属。その活動の一環として、模擬国連会議全米大会に参加するなど、まさに“国連一筋”の学生生活でした。
大学卒業後は、米フレッチャー法律外交大学院に進むのですが、大学でのゼミの指導教官であった猪口邦子先生(現・参議院議員)に、英語文献の読解や論文記述の手法、さらに英語でのプレゼンテーションなど、徹底して鍛えられたおかげで、大学院での厳しい授業にも、なんとかついていくことができたと感謝しています。

山下真理さん
人的ネットワークがいまも貴重な財産

約20年間、国連でキャリアを積んできた私ですが、そこで学んだのは、自ら世界各地のフィールドへ飛び込む勇気と、チームワークの大切さです。国連というところは、「何をどうしたらいいか」、誰も教えてくれませんので、自分でどんどんイニシアチブをとらなければなりません。
そのなかでも、振り返ってみると学生時代のネットワークは、貴重な財産だったように思います。上智時代の友人やサークル仲間とは、現在でも交流が続いており、折りに触れて何かと連絡を取り合っています。また90年に入った国連には、すでに上智の卒業生の方が数名おられ、物心両面から支えていただきました。
国連では現在、民間企業や大学とパートナーシップを組み、「グローバル・コンパクト」や「アカデミック・インパクト」などの新たな取り組みを始めています。また、同じ価値観と経験をもつ上智の卒業生を交えて、何か新しい試みができないか。そんなふうにも考えます。ソーシャルメディアなどを活用するのも、面白いかもしれません。米フレッチャースクールもそうですが、米国の大学の人的ネットワークはすごい。これは上智大学でも今後大いに議論し、検討すべき課題だと思いますね。

山下真理さん プロフィール

1988年 上智大学 法学部 国際関係法学科 卒業
国際連合広報センター所長
米フレッチャー法律外交大学院修了後、1990年国連競争試験に合格。国連事務局情報収集調査局、選挙支援部、政務局東南アジア・太平洋担当などを経て、2010年7月から現職。


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