第11回 地域便り

Veritas

ケンブリッジ便り 小川公代先生 (外国語学部英語学科)

2013.08.05

文学ゆかりの地、ケンブリッジ

今話題の「ロイヤル・ベイビー」で紙面を賑わせているウィリアム王子は、スコットランドのセント・アンドリューズ大学出身だが、父親のチャールズ皇太子はケンブリッジ大学の卒業生である。今回、私がこの場所を滞在先として選んだのは、研究のためだけでなく、中世の歴史、文学のゆかりのある土地として再訪したいと考えたからだ。

1. 戦いの末に…(イングランド誕生)

キングス・カレッジ・チャペル
(垂直式ゴシック)

ケンブリッジ大学は、1284年にピーターハウス・カレッジと呼ばれる小さなカレッジ(学寮)から始まった。イングランドの黎明期(14世紀)になると、クレア・カレッジ(1326年~)、ペンブルック・カレッジ(1347年~)と、大学は少しずつ拡大していく。19世紀には女性教育の意識も高まり、最初の女性専用のカレッジ、ガートン・カレッジ(1869年~)も設立され、現在では31ものカレッジがケンブリッジ大学を構成している。このような中世の時代から続く大学は、イングランドが国家として形成されていく過程と深い繋がりをもっている。キングス・カレッジは、ヘンリー5世の意思を継いだヘンリー6世によって1441年に設立されたが、ヘンリー5世といえばシェイクスピアの演劇でも英雄化されるほどの国王である。キングス・カレッジ・チャペルは、イングランド独自の「垂直式ゴシック」という建築様式を採用しており、フランスとの百年戦争で優勢になり、富を得て自国の文化に誇りを持つようになった人々の上昇志向を象徴しているともいえる。

2. ケンブリッジを描いた詩人たち

ケンブリッジの風景

ケンブリッジにゆかりのある文人はジェフリー・チョーサー(1343-1400)まで遡る。チョーサーの『カンタベリー物語』には、騎士だけでなく社会各層の人々による24の物語が綴られている。三つ目の「親分の話」は、ケンブリッジ近郊の町トランピントンが舞台となっており、ケンブリッジの学生ジョンとアランが登場する。この作品は、まだフランス語やラテン語が公用語であった14世紀に、英語が知的階層の間でも普及し始めるようになった好例といえる。富裕層の子弟が大学に送り込まれる時代になると、少し不真面目な学生も増えた。トーマス・グレイ(1716-1771)は、感傷的な詩で知られているが、若い頃は、「カレッジ長たちの風刺詩―またはどんぐりの背比べ」といったカレッジ長たちを皮肉った詩を書いたりした。一方、のちにロマン派の代表詩人となるウィリアム・ワーズワス(1770-1850)は、初期の「ケンブリッジ」という詩で、すでにその片鱗をうかがわせている。曇り空の荒涼とした朝、遠くに見えるキングス・カレッジ・チャペルの(四方についた)尖峰が天に伸びる様をみて元気づけられたことを回想している(And nothing cheered our way till first we saw The long-roofed chapel of King’s College lift Turrets and pinnacles … Extended high above a dusky grove….)。

3. 愛と詩と…

ケンブリッジの文化的価値を一番よく理解していたのは、1950年代にはるばるアメリカからやってきたシルヴィア・プラス(ピュリッツァー賞作家)であろう。ヴァジニア・ウルフらがよくお茶をしたといわれる「オーチャード・ティー・ガーデン」は、市街地からケム川に沿って1時間ほど歩いたグランチェスターにあるが、まだ無名であったプラスも、のちに夫となるテッド・ヒューズ(桂冠詩人)とこの散歩道を歩きながら文学談義をした。二人の初対面のエピソードは伝説にすらなっている。学生雑誌の創刊記念パーティで、ヒューズがプラスに話しかけたかと思うと、突然、イアリングが取れてしまうほどの力で彼女を引き寄せ、口づけをする。プラスが彼の暴力的ともいえる愛の衝動を受け入れたのは、既に彼の詩に魅了されていたからだ。4ヵ月後に二人は結婚した。プラスは悲運の最期を遂げる詩人だが、ヒューズとのケンブリッジでの生活は彼女にとって人生で最良の日々だったのではないだろうか。

 

歴史の大きな渦の中でケンブリッジ大学は、詩人や作家たちの感性とともに、有機的な発展を遂げてきたといえる。プラスは散歩しながら『カンタベリー物語』を暗唱したそうだが、それはケンブリッジの中世の町並みや乳牛たちが草を食む牧草地の風景が、チョーサーの時代との連続性を感じさせたからかもしれない。

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