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Q&A 61 ~ 73

Q&A 61 ~ 73

 

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61.カトリック教会にはたくさんの聖人がいるようですが、いわば守護神と考えてよいのでしょうか。

そうですね。神道の守護神と似ている所が多分にあります。違うのは、キリスト教で言う聖人とは神として祀られるのではなくて、やはり私たちと変わらない人間ですが、神の恵みによって生かされた人たちだ、という点でしょう。

これまでも「聖徒の交わり」について何度かお話ししましたが、キリスト教では、神の子らが神のいのちを共有する一つの家族であること、すでに世を去って神のもとにいる者も、まだこの世の試練にさらされている者も信仰において結ばれていること、そして時間と空間を越えて互いに助け合うものであることを信じています。特にカトリック教会では、すでに亡くなった人で、私たちの信仰の模範になるような人を、「聖人」として公に敬う習慣があります。聖人たちが天で私たちのために祈ってくれていることを思い起こすことは、励みになります。

カトリック教会で、洗礼を受けるときに自分の特別に尊敬する聖人の名を「洗礼名」としていただくのも、そのためです。その聖人と特別に結ばれます。不思議なことに、長い間に性格が自分の洗礼名の聖人に似てくるような気がするのですが、私の思い過ごしでしょうか。私の洗礼名はペトロですが、やはりペトロの単細胞の所とか、そっくり受け継いでいるような気がします。

教会で公に聖人として認められていなくても、亡くなった人で、私たちの心の中で親しく結ばれている人に、神の前で共に祈ってくれるようにお願いすることは、大きな助けになります。特に自分にはどうしてよいかわからないような困難に遭遇しているとき、聖人たちは私たちを助けてくれます。ぜひ試してみてください。

62.聖書もキリスト教も、もともと父制社会のユダヤで生まれ、その神のイメージも、信仰の教えも、すべて男性中心的だ、と聞きました。偏りではないでしょうか。

おっしゃるとおり、聖書の神概念は多分にユダヤの家父長制度の影響が強く、「父」なる神のイメージが前面に出ている、ということは言えるでしょう。でも、短絡的な決めつけを避けなければなりません。聖書の中にもさまざまな書物があって、さまざまな信仰のあり方が描かれています。たとえば、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたがたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)、また、「母が子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66・13)と言われるように、神の心が世の母親の姿をもって描写されています。また、「わたしの魂を、母の胸にいる幼子のようにします」(詩編131 ・2 )と言われるように、信仰者の神への信頼が子どもの母親への思いにたとえられています。そこには神のイメージの母性的な面が感じられます。

それに、逆のことも言えるのではないでしょうか。私はむしろ男性として、聖書の記述に違和感を覚えることがあります。たとえば、旧約聖書はしばしばイスラエルの民を娘、処女、花嫁にたとえます。「わたしはあなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒野での従順を思い起こす」(エレミヤ2・2)。罪を犯す民を姦淫の女に、民の身の上を思う神を嫉妬する夫にたとえています。「彼女は言う。『愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーヴ油と飲み物をくれるのは彼らだ』。それゆえ、わたしは彼女の行く道をいばらでふさぎ、石垣でさえぎり、道を見いだせないようにする」(ホセア2・7~8)。この伝統を踏まえて、新約聖書の記者たちは教会をキリストの花嫁にたとえています(ヨハネの黙示録21・2、エフェゾ5・21~33など)。心理的に言えば、このような信仰の記述は女性の方が理解しやすいかもしれません。

ただキリスト教の歴史の中で、神学というものがほとんど男性によってなされてきたために、信仰の理解でも、教会の制度や教義や慣習などでも、どうしても男性中心的なものの見方、考え方に偏りがちだった、ということは確かです。現代の「女性神学」(フェミニスト神学)は、この偏向を指摘し、女性の立場から改めて聖書の十全的な真理を掘り起こそうとしています。これは、もっと盛んになればよいと思います。キリスト教の信仰がより豊かなものとなるに違いありません。

63.カトリック教会で女性が聖職者になれないというのは、女性蔑視ではないでしょうか。

この質問には、いささか心苦しいですね。現代では世界の各地でフェミニズムとか女性解放運動とかが声高に叫ばれ、女性が社会のさまざまな分野で活躍するようになりました。特定の地位や役割が女性に開かれていないということは、時代遅れのように見えます。
では、なぜカトリック教会では聖職者を男性に限るのでしょう。これは、多分に歴史のなりゆきでそうなったのだ、と言ってもよいと思います。

もともとイエスは、当時のユダヤ社会では異様に思われるほど、女性を大切にしました。ユダヤ教の教師たちとは違って、女性を弟子にしましたし、女性は献身的にイエスの宣教活動に協力しました。福音書を読みますと、イエスが捕らえられたとき男の弟子たちは逃げてしまったのに、女性たちは十字架の下にまでつき従ったと言われています。また復活の朝、イエスは栄光の姿をまず女性たちに現します。イエスの女性へのかかわり方は、当時の世界では、いわば革命的なほどに進歩的だったと言えます。

そして、このイエスの生きざまを反映して、原始のキリスト教の教会では、女性が活躍していました。パウロの宣教活動にも女性の協力者たちの役割は大きかったし、あちこちのキリスト者の共同体で、女性たちが教師とか預言者などの役職についていたようです。もちろん、これはカリスマによる役職であって、法制化された制度であったわけではありません。
後の教会が原始の教会の精神をずっと保っていたとしたら、教会の歴史はまったく違った発展を見たことでしょう。でも私が思うには、あのヘレニズム世界の中で教会が発展していくには、よきにつけあしきにつけ、その社会の考え方や慣習を受けとらざるをえなかったのではないでしょうか。だいたい二世紀の半ばには、司教、司祭、助祭という三段階の職制がしだいに教会内に定着していきました。そして、制度としての役職は、その当時の風習から当然に、男性に限られていました。

そのようなわけで、教会の制度というのは多分に歴史の偶然がつくってきた面があります。聖職者が男性に限られるというのは、永遠に不変の神定法によるわけではないし、司祭職の本質を神学的に考えるとき、これが男性でなければならないという必然性はないと思います。現に聖公会やプロテスタントの諸教会では、女性の司祭や牧師がりっぱに活躍しています。カトリック教会は非常に伝統を重んじる教会ですから、一朝一夕には、これまでの習慣を変えるわけにはいかないでしょう。でも、将来はどうなるでしょうか。あんがい近いうちに変革が起こるかもしれません。

ただ現実的には、私は日本の教会では、もっともっと女性たちが自覚してほしいと思います。確かに信徒の人数から見て圧倒的に女性の方が多いし、その中には指導的な立場にある方々も少なくありません。特にシスターたちはさまざまな福音宣教の場で男性以上に活躍しています。でも、未来の教会を方向づけるために欠かせない神学の分野について言えば、女性の活躍はほとんど見られません。これまでの教会の伝統がそうさせてしまったのでしょうか。神学講座などに通う女性は多くても、そこからもう一歩先まで進んで、たとえば学会に参加したり、学術的なレベルの神学研究や教育にたずさわる女性はごくまれです。これは、残念でしかたありません。とにかく教会の改革には、まず内部からの意識変革がなければならないと思います。

64.遠藤周作が、聖書を読んで不満に思うのは、イエスに性の悩みが見られないことだ、と書いていますが、やはりイエスはそのような凡人の悩みを超越していたのですか。

これは多くの人が疑問に思うらしくて、似たような質問をしばしば受けますが、お答えしにくいことの一つです。それは、性がしばしば映画やマスコミでゆがんだ形で取りあげられるからでしょうか、敬虔なキリスト者はイエスの性を論じることを恐れはばかる傾向があるからです。それに、この問いには私たち自身の問題、しかも非常にプライベイトな事柄がからんでいて、これを公の場で語ることを恥じるからです。

まず、イエスには性欲があったかと言えば、もちろんあったに違いありません。健康な人間なら、食欲と同じく、性欲もあるはずです。しかし、食欲がただ人間の自然の生命を維持するためにあるのとは違って、性欲は種族の保存のための本能に尽きるものではありません。それは、根本的には愛するためのエネルギーだ、と言ってもよいのではないでしょうか。食欲以上に、性欲は人間の人格に深くかかわるものだと思います。

パウロは性の無秩序を戒めるとき、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます」(1コリント6・13~14)と言っています。つまり、性は愛のための能力であり、また人間同士の愛は神の愛につながるものです。自然の生命は朽ちるものでも、愛は永遠の価値をもつものです。

そこで、大切なことは、イエスにおいて愛のエネルギーが何に向けられていたか、を理解することです。福音書は現代的な意味の歴史の書ではありませんから、そこから史実のイエスの意識や感情などを正確に知ることはできません。しかし、イエスが神の国の福音を宣べるために寝食を忘れて尽くしたこと、そのために安住する家をもたず、食事をする暇もないほどだったこと(マルコ4・20、6・31参照)、気が変になってしまったとさえ言われて、身内の者が心配したこと(マルコ3・21参照)などは確かなようです。人間としてのイエスに宿っていた愛のエネルギーが、完全に神と人々への愛に費やされた、イエスの生涯は愛のために燃え尽きた、と言ってもよいのではないでしょうか。

次に、私たち自身の問題のことですが、聖書が性の悩みについてまったく答えていない、とは言えません。パウロは、自分の中にある二律背反を次のように語っています。「私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7・14~15)。もちろん、この言葉を性欲の悩みのことと解釈するのはあまりに狭い見方かもしれません。しかし、性欲のもたらす無秩序、ときには抗しがたいような破壊力を経験する者には、このパウロの血を吐くような叫びが身に滲みて感じられるに違いありません。人は、それぞれの人生経験の中で聖書の言葉を理解するものだからです。

さらにパウロは他の所で、「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(2コリント12・7)と書いています。パウロは、これを取りのぞいてほしいと三度も主に願っています。しかし、あなたには私の恵みで足りる、という主の保証をいただいて、あえて自分のありのままの弱さを受けとめます(同8~10参照)。パウロの経験した「肉体のとげ」が実際に何のことだったのか、これも聖書学者たちの間でさまざまに議論されていて明らかではありませんが、少なくとも私たちは、これを自分の負っている弱さや悩みにだぶらせて理解することができるのではないでしょうか。

65.カトリック教会にも、フランシスコ会とか、ドミニコ会とか、さまざまな派があると聞いています。どう違うのですか。

これも、たびたび耳にする質問なのですが、いささか誤解があるようです。フランシスコ会とか、ドミニコ会とか、イエズス会とか、カルメル会とか呼ばれている団体は、いわゆる「修道会」であって、異なった教派ではありません。そして、修道会とは、キリスト者としての生きかたを特別のかたちで徹底させようとして集まった人々の、まったく自発的な団体のことです。それぞれの創立者のカリスマによって、会の目的や性格が違いますが、どの修道会もカトリック教会に所属し、ローマ教皇を最高の指導者としており、その権威によって発布されるすべての規律に従い、共通のカトリック教会の典礼や慣習を守っています。日本のカトリック教会では、約五十の男子修道会、約九十の女子修道会が、さまざまな分野で活躍しています。

もともと修道会は、古くは三世紀頃から、現在のエジプト、ナイルの河畔の砂漠に退いて祈りと静寂の生活を送った隠修士たちの生活に始まりました。福音の精神を純粋な形で実現することが、彼らの理想でした。彼らは、すぐれた指導者のもとに集まって共同生活を営み、互いに助けあって信仰と霊性を深め、その集団からしだいに修道会が生まれてきました。修道会はまず東方のキリスト教世界に広まりましたが、西方では六世紀のベネディクトの修道会が最古のものです。修道者たちは農耕や牧畜による自給自足の共住生活を営みながら、徹底してキリストに従う道を求めたのでした。

修道者たちの生活は、混迷の中にあったヨーロッパ中世の社会にとって精神的な支柱となりました。その後、それぞれの時代の要求に応えて、さまざまな目的と生活形態をもつ修道会が生まれて現在に至っています。それぞれの創立目的に従って、祈りに専心する修道会もあれば、宣教活動や教育や福祉事業にたずさわる修道会もあります。共通しているのは、それぞれ自分が神から召されたと信じる道で、徹底してキリストに従おうとすることです。

66.親切で明るいシスターがたを見て、いつも敬服します。どういう生活をなさっている人々なのでしょう。

そうですね、日本ではシスターたちの活躍は目覚ましくて、学校や病院や福祉施設の経営を始め、さまざまな分野でカトリック教会の宣教活動を担っています。「シスター」と呼ばれている人たちは、要するに先に述べた修道生活を送る女性たちです。

さて、シスターたちがどのような生活をしているかと言えば、それは修道会によって違いますが、皆に共通なのはキリストと教会のために身を捧げている、ということでしょう。それは、キリスト教信仰の特別なかたちでの実現、キリスト者としての一つの特殊な生きかたとして、普通の信者の生活と違っています。

その違いは、より具体的には修道者の「誓願」(神と人々の前で公にする誓い)に表されます。修道会に入ると、だれしも一定の期間は見習いとして過ごし、その後に誓願を立てることによって、一人前の修道者となります。誓願の主な内容はどの修道会にも共通していて、「貞潔」「清貧」「従順」の三つです。「貞潔」とは、徹底してキリストに従うために結婚も家庭生活も放棄して、いわばキリストを伴侶として生き、修道会の共同体を自分の家庭とすること、「清貧」とは、貧しくなったキリストにならうために、いっさいの私有財産を放棄して、生活の糧をすべて修道会の兄弟姉妹と共有すること、「従順」とは、死に至るまで父のみむねに従ったキリストにならうために、自分の意志を奉献して、長上の指導の中に神の意志を読み取ることです。いわば結婚する人が結婚式で交わす誓約に似て、修道者にとって誓願は自分をキリストと修道会に結ぶ生涯のきずなとなります。

シスターたちは、この誓願を立てることによって、主キリストに身を捧げ、それぞれの修道会の活動と生活様式に従って、教会と世の人々への奉仕に尽くしています。会によって制服を着ている人々もいれば、私服の人々もいますが、それは修道会のたずさわる活動によって違います。信仰を公に表すために修道服を着ることも大切ですし、仕事によっては社会の中で一般の人と隔てなく働くために私服を着ることが必要にもなるでしょう。

67.シスターになるのは、どういう人たちなのですか。体験のために修道院に一時的に入れてもらうことはできないのでしょうか。

シスターになるには、まず洗礼を受けてキリスト者となってから数年たっていることが前提となります。要するにシスターたちは、その「キリストの者となる」ことを、もっと徹底した形で実現したいと考えて、さまざまな生き方の可能性を検討した上で、一つの修道会の会員として生涯を送ることが自分の一生にとっていちばん意味あることなのだ、と確信した人たちです。

これは、キリスト者として、いわば例外的な生き方です。自分の生涯を賭けて、ラジカルな形で福音の精神に生きようとする生き方です。人によっては、それが人格を開花させる、真に幸せな生き方となるでしょう。でも、だれにでも向いているというわけではありません。まして、人生に失望したり、この世のわずらわしさから逃避したくなったという理由で、修道院に安息の地を求めるとしたら、それはとんでもない錯覚です。修道院は安息の地ではなく、むしろキリストに従って生きようとする者の、厳しい戦いの場だからです。

修道生活は、特別の恵みがなければできません。修道生活が自然にそなわっている素質や性格を抑圧することなく、むしろこれを豊かに開花させ、真に幸せなものとなるためには、人の意志とか力だけでは足りません。そのために修道生活への適性は、神からの「召し出し」と呼ばれています。神が特別に選んで、そのための恵みを与えてくださらなければ、それを生涯にわたってまっとうすることはできないからです。

修道会によっては、体験のために志願者を一時的に迎え入れてくれる所もあるでしょう。そこで修道者たちと一緒に生活してみて、そのような生活様式が自分にとって向いているかどうかを、神の前に静かに考えてみるのもよいでしょう。いずれにせよ私は、このことに関しては経験ある指導者に相談して、指導を受けることを勧めます。

68.近年では、キリスト教の諸派の間で相互の対話や協力が盛んになったと聞きます。それではなぜ、「統一協会はキリスト教ではない」と言って排斥するのですか。

もともとキリスト教にとって、「主は一人、信仰は一つ」(エフェソ4・5)です。そして、神の和解と愛を世界に告げ知らせる使命をもった教会が分裂していることは、キリスト教の本来のあるべき姿ではありません。このことに心を痛めるキリスト教の諸教派には、「エキュメニズム」と呼ばれる、信仰の一致を促進する運動が高まってきています。日本でも最近、諸教派が協力して、聖書の共通の日本語訳を完成させました。教派の区別なく同じ聖書をもっているのだから、同じ邦訳聖書を使いたい、という望みからです。このように諸教派が一緒に仕事をしたり、話しあったりする機会をもって、互いの伝統のよさを学びあうことは、とても有意義なことです。それによって自分の教会に足りない所などにも気づかされますし、キリスト教の信仰のもっている生命をもっと豊かにすることができます。

ところが残念ながら、このようなエキュメニズムの対象にはなりえない、キリスト教の名を語って人を惑わす新興宗教があります。「統一協会」もしくは「原理運動」(正式の名は「世界基督教統一神霊協会」)も、その一つです。巧妙な手段を使ってキリスト教の学校や諸機関にまぎれこみ、騙された人を引きずりこんで、あちこちに被害が出ていますから、教会の指導部では警戒せざるをえません。

統一教会は、文鮮明という教祖によって一九五四年に韓国で創立された、陰陽道とシャーマニズムが一体となった新興宗教です。文鮮明は聖書を勝手に解釈して、自分の都合のよいように用いますが、つまるところは、自分こそが再臨のメシアだ、と主張します。イエスがなしえなかった救いを、自分がもたらす、と言います。『原理講論』という教典があって、これが真理を初めて明らかにするものとされます。

統一協会の教えについてはここで詳述しませんが、どのような教えであれ、私たちにはキリスト教の正統信仰を見わけるために一つの鍵があります。それは、イエス・キリストをだれと言うか、を見ることです。イエスを通して神が歴史の中でただ一回限り、決定的なしかたで御自身を啓示されたのだ、イエスこそ神の絶対的な仲介者だ、と信じるのがキリスト教です。もしイエスがなしえなかったことを他の人がなす、と言うのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。また、聖書が明らかにしなかったことを、他の書物が啓示すると言うのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。これはキリスト教信仰の真髄をなすことです。

69.近くにモルモン教の教会があって、礼儀正しい外国人の青年が路上で熱心に勧誘しています。正統なキリスト教の教派とみなしてもよいのでしょうか。

モルモン教は、正式の名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言って、一八三〇年ジョゼフ・スミスという人によって米国で創立されたキリスト教的な新興宗教です。スミスは天使の啓示によって『モルモン経』という聖書を発見した、と主張しました。それによると、古代イスラエルの一部族が紀元前六〇〇年頃アメリカ大陸に移住し、これがアメリカ・インディアンの祖先でした。イエス・キリストが彼らに現れ多くのことを教えたにもかかわらず、彼らは堕落して滅び、ただ一人の生き残りであるモルモンがすべてを金の板に書き記して埋めた、と言うのです。その教えによると、今の世の終わりが近く、イエスは間もなく再臨します。モルモン教徒は、自分たちこそイエスの再臨を準備する集団だと確信し、他のキリスト教の教派を誤りとして排斥します。

教祖のスミスは一八四四年に死にましたが、後継者ヤングは信徒たちを米国西部のユタ州に導き、ソートレイクシティーという町を築きました。この町は終末的なエルサレムとされています。モルモン教徒の生活は道徳的に非常に堅固で、勤勉に仕事に精を出します。特に宣教活動に熱心で、すべての男子の信徒が二年間は世界のさまざまな国で布教に従事することが義務づけられています。

モルモン教徒の倫理的なまじめさは尊敬に値しますが、その教えは架空の私小説に基づく、一九世紀のアメリカの世界覇権の自負心に由来する、と言ってもよいでしょう。正統なキリスト教とは言えません。

70.「エホバの証人」の人が戸別訪問して来ますが、新聞では輸血拒否などで騒がれています。どのような教派なのでしょうか。

「エホバの証人」とは、やはり米国で一八五二年に創立されたキリスト教的な新興宗教です。創立者はチャールズ・T・ラッセルという人物ですが、彼は他の新興宗教の教祖と違って、自分が新しい啓示を受けたとは主張しませんが、聖書を自分勝手に解釈し、自分こそが聖書の正しい意味を発見したと主張します。とりわけ『ヨハネの黙示録』を勝手に解釈して、ハルマゲドンと呼ばれるサタンの軍勢との戦いが起こると予言し、救われる一四万四千人に入れられるように呼びかけました。そして、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。

彼らの輸血拒否は、もともと旧約聖書の掟に由来します。生命の源である血は神に属するもので、動物の肉を食べるときにも血は神に捧げなければならないという掟ですが、エホバの証人たちは、その掟を字句通りに受けとめて、輸血は人の血をもらうことだから、動物の血を飲むに等しく、許されないとします。実は聖書そのものも、やはり時代の制約を帯びたものであって、字句よりも、むしろその真意を読みとることが大切です。字句通りを絶対視することは、かえって聖書の精神を損ねてしまいます。だからこそ聖書の解釈は、やはり教会の伝統に基づいてなされなければなりません。

エホバの証人たちは、キリスト教の正統信仰である三位一体の教義を否定します。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

71.キリスト教では聖母マリアの処女懐胎を信じていると聞きます。それは医学的にありえることでしょうか。

これは、よく尋ねられる質問ですね。まず、キリスト教信仰にとって聖母の処女懐胎がどのような意味をもっているか、ということをお話ししましょう。

イエスの誕生のいきさつについて記しているのはマタイ福音書とルカ福音書ですが、まったく違った書き方ながら、両者とも、マリアが婚約者のヨセフと一緒になる前に、聖霊によって身ごもったことを記しています(マタイ1・18~25、ルカ1・26~38)。しかし、マタイもルカも、そこで強調しているのは、医学的、生物学的には説明できない奇跡のことよりも、むしろ神学的な意味のことです。つまり、神が人間の救いのために自ら世界内に介入されること、この救いのわざは神からのイニシアティヴによるものであり、決して人間の意志によらないことを表現しています。

ひととき宗教史学の研究で、当時の諸宗教にもこれに似た現象のあることを確かめ、そこからマリアの処女懐胎の信仰の由来を説明する試みがなされたことがあります。しかし、それは成功していません。むしろ、当時のユダヤ教の土壌では、通常の結婚をして多くの子どもを産むことこそ神の祝福とされていました。処女であることは、必ずしも積極的な意味をもっていませんでした。やはり、聖母の処女懐胎はキリスト教のユニークな信仰に属しています。

ヨハネ福音書は、神の子となる資格を与えられた人々が「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」(1・13)と述べていますが、イエスの誕生のできごとこそ、その神の恵みのわざの結晶でしょう。処女懐胎は、神の救いの歴史に与えられた一つの「しるし」です。もちろん、イエスが神の子であることと処女懐胎ということとの間には、論理的に必然的なつながりはありません。処女懐胎だから神の子であることが証明されるわけでもなければ、イエスが普通の生殖によって生まれたとしても神からの由来に別に差し障りはなかったでしょう。しかし、歴史の中に現実になった「しるし」なのです。たとえ、現代人に説明しにくかろうと、神の救いのわざのシンボルとして与えられています。

「シンボル」と言っても、ただ神学的な主張の表現形式にすぎない、と言うわけではありません。聖書学の研究から、マタイとルカ、そして二人の属していた原始の教会が、処女懐胎のシンボルを実在的に理解していたことに疑いの余地はありません。また、教会の伝統の中で、つねに信じられてきたことがらです。私自身、これを信じて疑いません。全能の神が私たちの世界に介入なさった創造のわざであることを思うと、これを信じることに困難はありません。たとえ、医学的な次元で論じられるものではなくても、神から与えられたすばらしいしるしだ、と思っています。

72.よく聖母マリアが出現した、こういう奇跡があった、という話を聞きます。カトリック教会ではキリストよりも、マリアを拝むのですか。

キリスト教の教会では、大昔から聖母マリアへの信心が発展しました。それは、宗教学的に分析すれば、あまりにも男性中心の世界で発展したキリスト教が、ともすれば欠かしがちだった母性的なものへの人間の自然の憧憬をそこで満たしてきた、と言えるでしょう。キリスト者は病気や死の苦しみの中で自分の弱さを痛感するとき、母のやさしさをもって慰め、助けてくれる存在として、聖母にすがったのです。

でも、誤解しないでください。それは決して聖母マリアを女神のように拝むことではありません。そうではなく、聖母マリアが私たちとともに神に祈ってくださる、という信心です。

すでに「聖徒の交わり」についてはお話ししましたが、キリスト教では神の子らが、すでに世を去って永遠のいのちにあずかっている者も、まだこの世の旅路で試練にさらされている者も、時間と空間を越えて神の恵みを共有し、互いに助けあうのだ、と信じています。聖母マリアへの信心は、この聖徒の交わりの中で理解すべきものです。聖母マリアは、いわば家族の中の母親のように、神の子らの交わりの中で特別の役割を果たす方だ、と考えられています。なぜなら、マリアは神の救いのわざにまっ先に応え、それにあずかったからです。マリアもイエス・キリストの贖いによって救われた人ですが、その救いにいちばん先にあずかった人、いわば救いのわざの第一の実りです。

ルカ福音書が有名な受胎告知の場面で描いているように、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)という言葉をもって、マリアは神の呼びかけを自由意志をもって受諾し、自分の存在を救いのわざの道具として差し出しました。マリアは心をこめてイエスを養い育て、イエスの宣教活動に協力し、十字架に至るまで、イエスの歩んだ道をともないました。マリアこそ、どの弟子たちにもまして、イエスにいちばん近い存在だった、と言えるでしょう。

もし私たちが互いに、「あなたのために祈ります」と言い、だれかのために神に祈ることが意味のあることなら、聖母マリアこそ私たちのために祈ってくださる方です。ヨハネ福音書は、十字架の上でイエスがマリアと愛する弟子に向かって遺言を残す光景を描きます。

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」(ヨハネ19・26~27)。これは、すでにヨハネ福音書の記者が、マリアの教会に対する役割をはっきり意識して書いた、と理解されます。

いろいろな出現の話とか奇跡の話とかは、多分に民間信仰によるものです。キリスト教を信じるからと言って、そのすべてを信じる必要はありません。でも、人生のさまざまな試練の中で聖母マリアに助けと慰めを見いだすことは正しいし、信仰者はこれがどれほど大きな恵みであるかを、自分の経験を通して知っています。

73.カトリック信者が愛唱している「天使祝詞」の中に、「天主の御母、聖マリア」と唱えるのには疑問があります。聖書では父なる神が天主なのに、なぜ聖母が天主の御母なのでしょうか。

このご質問は、もう千五百年以上も前に論争の的になったことです。そもそもきっかけは、イエス・キリストがだれであるか、という議論でした。「神の母」とは、歴史の経緯の絡んだ特殊用語で、この言葉には、イエスは神ご自身を仲介する者である、イエスは神の子である、イエスは受肉したロゴスである、という信仰が前提になっています。

「時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしになりました」(ガラテヤ4・4)と言われるように、イエスが女から生まれたことは、神のロゴスが私たちと同じ人間性を受け取った、ということを、なまなましく表現するものでした。だから、古代の信仰告白で、「おとめマリアから生まれ」という言葉は、「ポンシオ・ピラトの下で苦しみを受け」という言葉とともに、イエス・キリストの現実の人間性と歴史性を強調するために言われました。それによって、イエスの肉の弱さこそ、肉である私たちの救いとなること、このイエスを神が栄光に挙げられたことによって、肉である私たちに神のいのちが約束されたことが表現されています。

四三一年エフェソ公会議は、当時の論争の的であった「神の母」という表現が正しい、ということを宣言しました。しかし、教義の歴史を詳細に調べますと、そこに貴重な信仰の真理が語られているとしても、その表現がいつも人々に正しく理解されたか、という点には疑問の余地があるでしょう。いずれにせよ、今日の私たちは、「神の母」と唱えるとき、多神教的な女神を想像するのではなく、神の救いの計画がマリアの自由な受諾によって実現したことを思い、神のことばに聴き従ったマリアを讃えるのです。

 

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