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Q&A 41 ~ 60

Q&A 41 ~ 60

 

Q&A 1 ~ 20    Q&A 21 ~ 40    Q&A 61 ~ 73

41.世界情勢の危機的な様相とか、地球の環境汚染の問題などを考えるとき、未来が不安です。キリスト教のある教派ですが、世の終わりが近づいているとか、裁きが迫っているとか、街頭で盛んに宣教していますが、やはりそうなのでしょうか。カトリック教会ではどのように考えているのですか。

おっしゃるとおり、現代世界は不安に満ちています。戦争の脅威にさらされている国々での核兵器や化学兵器による自然破壊は言うまでもありません。平穏無事と言われる日本でも、経済至上主義と消費文明の精神性にどっぷりつかった人間は、人類の共通の財産であるはずの資源をむさぼり尽くし、海洋や大気を汚染し、自然環境を破壊し続けています。このままでは、次の世代に人類の生存にかかわるほどの「つけ」を回すことになるでしょう。 

でも、だからと言って、世の終わりが近づいているとか、世界が破滅に至るとか、まるで昔のユダヤ世界に流布していた黙示文学のような、末法思想を唱えるのは正しくないと思います。また、死後に裁きが来ると言って人々を脅かすのも、本来は喜びの知らせであるはずの「福音」の精神ではありません。 

キリストの福音によって神の国の建設のために働くよう呼ばれている者は、この世界が、人間社会も自然環境も含めて、すべてが神の愛の支配に服するように願い、そのためにどんなにわずかであっても、力を尽くさなければなりません。人間の救いは、およそ「世界の救い」と切り離しては考えられないからです。
しかし、当時にキリスト教の信仰は、全能の神の救いの働きによって、人間のどんな罪と過ちにもかかわらず、最終的には人類の歴史が破滅に終わるのではなく、神の恵みの勝利に終わるであろうことを信じています。真にキリストの福音を信じる者は、世界のどんな危機的な状況の中でも、この信頼と楽観主義を失ってはなりません。
 
イエス・キリストの復活は、世界の歴史が最終的には神の愛の勝利に終わるであろうことを約束するものです。それは新しい天地創造を先取るものであり、だからこそ、私たちにとって希望の保証となるものです。たとえ世界にどのような悲惨があり、人間の罪に起因する傷とゆがみがあろうとも、キリスト者は神ご自身がイエスの十字架を通してこれを担ってくださり、これを癒してくださるであろうことを信じています。イエスの復活というできごとこそ、この神の約束の公示であり、新しい天地創造の開始であることを信じています。

42.これまで、かなりキリスト教の勉強をしたのですが、もう一つ腑に落ちません。すなおに信じている人を見て、うらやましくなります。私は生まれつき、不信仰者なのでしょうか。

いいえ、それは違います。不信仰者に生まれた者など、この世には存在しません。表面的には宗教心の深い性格とか、そうでないとか言えるかもしれませんが、人はだれしも神によって造られ、しかも神に向けて造られたのですから、神を求めるのが自然だし、神の恵みに生かされるとき初めてしあわせになります。 

ただ、勉強をしても、頭でわかっているだけで、単なる知識のレベルにとどまっている、ということはあるかもしれませんね。知識だけで心がともなわないなら、それはまだキリストを真に知ったことにはなりません。それは、どんなに念入りに電気配線をしても、スイッチを入れなければ、ライトに光が灯らないようなものです。
私は、少し「祈る」ことをお勧めします。静かに神の前に自分を置いて、耳を澄ませてみたらどうでしょう。今まで気づかなかったことに気づかされるかもしません。
 
キリスト教の信仰とは、端的に言って、イエス・キリストと出会って、キリストをとおして父なる神を知る、ということです。そして、このイエス・キリストとの出会いは、最終的には知識の問題ではありません。むしろ、キリストの心を感じることだ、と言ってもよいかもしれません。心は、ただ心でもって受けとめられるものですね。だからキリストの心は、やはり心でもって受けとめなければなりません。

43.私の家では、これといった宗教を信じていませんが、私が小さい頃から神様に手を合わせて祈る、ということがありました。そのような祈りはキリスト教でも正しいのでしょうか。

もちろん、神様はただお一人であって、どこで、どんな形で祈っても、聴いてくださいます。そして、目に見えるものを越えて、すべてを統べ治められるかた、私たちをいつも恵みによって育んでくださるかたに向かって、手を合わせて感謝するということは、宗旨が何であれ、よいことです。 

ただ、人間はとかく利己的になりがちですから、うっかりすると御利益を求める祈りに陥ってしまいます。ヨハネ福音書には、サマリア人の女性がイエスと信仰の違いについて話しあうエピソードがありますが、彼女は言います、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(4・20)。イエスは答えます、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4・21)。つまり、神様にとっては、宗旨の違いとか、祈りかたの違いとかは、取るに足りないことなのですね。大切なのは形ではなく、心です。だからイエスは続けて言います。「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4・24)。

ここで、「霊と真理をもって礼拝する」とはいったい何なのか、むずかしい議論は差し控えましょう。「霊」とは、一言に言って、万物を生かす神の創造の息吹です。その息吹に息吹かれて初めて、私たちは利己心を離れ、真の礼拝をなすことができるということです。だから、祈るということは、それ自体、すでに恵みによって導かれている、ということですね。真の祈りは、この導きに身を委ねる、ということでしょう。

私たちキリスト者は、「霊と真理による礼拝」がイエス・キリストをとおしてもたらされた、と信じています。そして逆に、霊によってイエス・キリストと結ばれて、初めて真実な礼拝をなすことができる、と信じています。イエスと結ばれて、神に向かって「アッバ、父よ」(ローマ8・15)と叫びます。そして、父なる神がイエスを愛された、その同じ愛をもって、私たちをも愛してくださることを信じています。これが、キリスト教の特徴である祈りの三位一体の構造です。

44.毎日のあわただしい生活の中で「祈りたい」と思うのですが、どう祈ったらよいかわかりません。教えてください。

そうですね。私たちの生活は、毎日ほんとうにあわただしくて、静かに祈るということが、とてもむずかしくなっています。だからこそ、祈りが大切だ、と言うこともできます。祈りは、いわば神のいのちに生きる者の呼吸だからです。祈りがないと、私たちはこの世の中の喧騒に呑まれて、世俗的な価値観や、ものの見かたに染まってしまいます。祈りこそは、忙しい毎日を送る私たちに、神の前で自分をととのえ、新たに方向づけることを可能にします。だから、祈りをするかしないかは、神のいのちに生きようとする者にとって、死活問題です。 

どのように祈ったらよいか、というお尋ねですが、私は一つ、だれにでもできる、ごく簡単な祈りの方法をご紹介しておきましょう。それはまず、朝、目覚めたとき、床の上で「主よ、今日一日をあなたにお捧げします」と祈ることです。これなら、目覚ましに叩き起こされて、寝ぼけまなこのときにもできるでしょう。キリスト者なら、十字を切ります。十字を切るということは、カトリック教会の伝統で大切にされた信仰の動作の一つですが、朝起きたばかりで、まだ頭がもうろうとしているときでも、からだ全体をもって祈る、いわばからだに覚えさせた祈りです。それによって、一日の自分の思いと言葉と働き、喜びと悲しみ、困難と希望のすべてを、主イエス・キリストの十字架上の奉献に合わせて、父なる神にお捧げします。

同じように、夜、眠りに就くとき、床の上でよいですから、「今日一日を感謝します」と祈ります。一日の自分の働き、人々との交わり、成功したことも失敗したことも、父なる神の前に思い起こして感謝します。自分の惨めさにもかかわらず、いや自分の惨めさゆえにこそ、父なる神の導きに感謝し、その慈しみを讃えて、この一日を閉じます。キリスト者なら、十字を切ることを忘れてはなりません。たとえ酔っぱらって家に帰ってきて、バタン・グーで寝るとしても、寝る前に十字を切って寝ることができるように、日頃、自分のからだに言いきかせておくとよいでしょう。こうして、私たちの生活を、主において始まり、主において終わるものとすることができます。

45.私は星占いにとても興味があります。落ち込んだときに占いに助けられたこともあります。私はキリスト教信者としては失格でしょうか。

落ち込んだときに占いでもやって見ようか、という気持ちになるのは、よくわかります。人間はだれしも、幸福を求め、その約束を与えるものに飢えているからです。古今東西を問わず、原始社会には占いはつきものでしたし、現代でも自分の未来に幸福を求める人々は尽きず、いまだに星占いや手相見などが流行しています。 

しかし、占いを本気で信じるとすれば、それは人間の運命が自分の意志によらずに、何かによって決定されるかのように信じることであって、迷信であり、有害な倒錯の行為です。人間の未来は、神と人間との対話の編みなしていく歴史の中にあって、まだ未決定のものとして開かれています。神の呼びかけに応えようとする私たちの一瞬、一瞬の決断と行動が、また新しい神の呼びかけを準備します。そして、神の導きの中に、私たちが自由と責任をもって造りあげていくのが、未来です。 

確かに私たちは、ときどき日常の生活の中で、自分の力を越えるものが働いている、ということを感じることがあります。良いことにも悪いことにも「縁起」をかつぎます。不幸が続くときには「厄落とし」をしたくなります。こういう人間の自然の気持ちを、キリスト教の信仰は否定しません。問題は、どのように正しい信仰の中に統合するか、ということだと思います。全能の神なる父のはからいに信頼し、一羽の雀さえ父のゆるしがなければ地に落ちることはない(マタイ10・29)ことを思って、勇気をもって当たれば、きっと「運」が開けてきます。そこで、聖母マリアや聖人たちの助けを願うのもよいでしょう。聖画を部屋に飾り、メダイを首に掛けることも「効き目」があるかもしれません。

46.「神の選び」という言葉を聞きますが、神が選んだ人だけが救われるのですか。選ばれなかった人には、救いはないのですか。

違います。この場合に「選び」という言葉が、信仰者の実存的な体験から語られていることを忘れてはなりません。それを普遍的に、運命論的にとらえれば、とんでもない誤解です。神が貧しい自分を特別に導いてくださったことを信仰の中で感じ取る人は、この無償の愛を「選び」という言葉で表現します。そういう意味では、一人ひとりが神によって選ばれた者だ、と言うことができます。 

福音書にある羊飼いのたとえを御存じでしょう。失われた一匹の羊のために、この羊飼いは九十九匹の羊を野に残していきます(ルカ15・4~7)。これを不都合と思う人は、ひそかに自分を九十九匹の中に数えているのです。しかし、自分こそ失われた羊だと感じている人は、神がこの自分を特別に愛してくださり、選んでくださったことを喜びとします。
どうか、あなた自身が神によって選ばれた者であることを知り、そこに喜びと感謝を持つことができるように願っています。

47.しばしばキリスト者は「神の呼びかけ」とか「みむね」とかを口にします。私たちは、神が望んでおられることを知ることができるのですか。もし本当なら、どのようにすれば知ることができるのですか。

「神の呼びかけ」と言っても、それは比喩的に言っているのであって、決して本当の声が聞こえてくるわけではありません。そうではなく、自分の信仰生活の体験の中で、神が自分に望んでおられることを感じ取るのです。
それには、やはり祈りの経験が必要です。神の前で静かに自分を振り返る、という習慣をつけると、少しずつ「神のみむね」が何であるかを知ることができるようになります。 

まず、祈りの中でまじめに考え、これこそ自分がすべきだ、と思うことをやってみます。そして、やってみて、心の奥底に深い喜びを感じたなら、それが神の前で正しい決断だったのです。神は私たちに、単なる表層的な喜びではなく、存在の根源に触れるような喜びを、御自分のしるしとしてお与えになるからです。長い人生の歩みの中で、その時点に自分が変えられ、成長させられたことを確かめることができれば、その決断こそ神が自分に望まれたことだった、と言うことができます。

でも、あまり神がかりになってはいけません。私たち人間は、あくまでも自分に与えられた理性をもって判断し、与えられた意志をもって行動していくのです。そして、長い人生の営みを振り返ったとき、それが神の導きであった、と知ることができるのです。

48.このたびの湾岸戦争では、双方が神の名によって戦うということを主張しましたが、宗教が戦争の動機づけになるのですか。カトリック教会ではこの戦争をどのように考えているのですか。

マスコミの論評などで、ときどき宗教が争いのもとになるかのように言われるのですが、少なくともこの戦争は宗教のために起こったのではない、ということをはっきりさせておきましょう。ただ、他の理由で起こった戦争を正当化するために、人は宗教を利用するのです。神の意志に基づく正義の戦いであるとか、悪魔に対する聖戦であるとか言って、戦う人たちを励ますのです。宗教がイデオロギーとして利用されるのは、歴史に繰り返される不幸な現象ですが、これに対して私たちは批判的でなければなりません。

さて、もう一歩踏み込んで、キリスト者として湾岸戦争をどう考えるか、と問われると、これは難しい問題です。武力行使が絶対的に否定されるとか、逆に正義のために武器を取るべきだとか、キリストの福音からすぐにはっきりした結論は出てこないからです。およそ政治の問題には様々な要因が絡んでいて、白とか黒とか、そう簡単に割り切れません。むしろ白も黒も両方を含んでいるのが現実でしょう。政治については、キリスト者だからこういう立場を取るべきだとか、キリスト者だからこの政党を支持すべきだとか、そのような結論はすぐには出てきません。

だから神の国の実現を目指すキリスト者がすべきことは、そのつどの状況に則して、福音の精神からどのように考え、どのように行動すべきかを、祈りの中で誠実に考え、互いに話しあい、自分の良心に従ってできるだけのことをする以外にありません。もちろんカトリック教会なら、その地の司教団がイニシアティヴを取って、教会全体の見解をまとめることができれば、それは大きな力になるし、正義と平和のために効果的に貢献することができるでしょう。でも、それが必ずしもカトリック信仰から必然的に帰結される見解であるとは限らないし、それと違う考え方もありうるかもしれません。だから、互いに愛と尊敬をもって、自分の考えを絶対視したり、他の考えを排斥したりしないことが大切だと思います。 

しかし、あえて私の考えを述べさせていただくと、次のことははっきり言っても差し支えないでしょう。およそ戦争は神のお望みではありません。教皇ヨハネ・パウロ二世が述べられたように、人間の罪の結果として生来する野蛮な殺戮と破壊です。どのような大義名分をもってきても、その事実には変わることはありません。

しかも昔と違って、現代では一つの兵器の使用が戦闘員と非戦闘員の区別なく大量殺人という悪をもたらばかりか、人類の存亡にかかわる生態環境を致命的に破壊さえしてしまうのです。そのような状況の中で、はたして正義のための戦いという理屈が成り立つでしょうか。国際秩序を守るための警察行動という論理は、やはり限界があると思います。たとえ国連の決議であったとしても、私自身は武力によって正義の証をするという考えには賛成できません。

49.キリスト者たちが大嘗祭に際して政教分離を訴えるのはわかりますが、天皇制そのものに反対するのはなぜですか。天皇制はキリスト教の信仰とあいいれないものなのですか。

これも、様々な要因が複雑に絡みあった問題です。キリスト者の中にも、さまざまな考え方がありうるでしょう。現在の憲法の定める天皇制は、少なくとも理論的には天皇を神格化したり、神道を国教として強要したりするものではありませんから、ただちにキリスト教の信仰と矛盾するとは言えないでしょう。カトリック信者の中には、天皇陛下に対して深い敬愛の念をもっている人たちは大勢います。ギリシャ正教会では、古来の伝統にのっとって典礼の中で必ず天皇陛下のために祈る習慣があります。

しかし、天皇制は軍国主義のイデオロギーとして利用されたという不幸な過去があり、将来にもその危険が皆無であるとは言えません。日本は天皇の名のもとに、アジアの隣人諸国を侵略し、暴挙を働きました。そのときに人々に与えた傷は、まだ癒えていません。 また、天皇制は今もなお、国粋主義につながりがちです。ひょっとしたら私たちの心の奥には、日本人をアジア諸国の人々よりも優れた人種であるかのように思ったり、彼らを排斥したりする傾向が潜んでいないでしょうか。もしそうだとすれば、それはキリスト教の信仰と相いれません。なぜなら、キリスト教は神がすべての人の父であり、私たちがともに神の子の交わりに招かれている兄弟であることを信じるからです。

たとえキリスト教の教会が歴史の中で権力者と親密な関係にあったり、今でもキリスト教国で国家行事と不可分なかかわりにあるとしても、だからといって政治権力との結びつきがキリスト教の本質に抵触しないという結論にはなりません。逆に天皇制が神道色を帯びていて、キリスト教に有利でないからといって、キリスト教の信仰と相いれないという結論にはなりません。私たちはむしろ、より根本的に福音の精神に照らして考える必要があるでしょう。キリストの福音は血統や民族性によらず、信仰による新しい神の民を志向するものです。人は血統のゆえに神に選ばれるのではなく、また民族性のゆえに神の前で他より優れているのではありません。このことは、天皇制を考える際に見落としてはならない視点だと思います。

50.しばしばユダヤ人が憎まれるのは、キリストを殺した民だからですか。聖書に約束されているからと言ってパレスチナを占領し、住民を弾圧しているユダヤ人を許してもよいのですか。

ユダヤ民族は過去の歴史でひどく迫害され、悲しい境遇に置かれてきました。でも神に選ばれ、神と契約を結んだ民族です。イエスをとおして語られた神の呼びかけを拒み、その代わりに信仰による神の民(キリストの教会)が生まれたとしても、かつてイスラエルに与えられた神の約束が反故にされたわけではありません。パウロがロマ書の九章以下で論じているように、神の永遠の計画の中にイスラエルは特別の位置を持ちつづけています。神は必ずイスラエルを導き、ご自分のものとして回復されるでしょう。

だから、ユダヤ民族はキリスト教にとって特別に親しく、特別の尊敬に値する人々です。ユダヤ人への憎悪や差別を、キリストを十字架につけた民族だからとか、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27・25)という言葉の実現だとか言って正当化するのは、聖書の無知からくる危険なイデオロギーです。

他方では、ユダヤ人たちが聖書を用いて、神が自分たちに約束の地を保証しておられるという理由でパレスチナ人の土地を侵略し、聖書を用いてアラブ諸国との戦いを正当化しているのは、これもまた危険なイデオロギーです。旧約聖書の言葉は、やはりその当時の文脈で理解すべきものであって、字句どおりに今日の状況にあてはめることはできません。福音の愛の精神から言って、現代イスラエルの侵略行為を是認することはできません。

51.キリスト教にもいろいろな教派があるようですが、カトリックとプロテスタントとはどう違うのですか。

まず、カトリックとプロテスタントとは、どう違わないか、ということをお話ししましょう。一つの泉から水が幾筋にも流れ出るように、二千年のキリスト教の歴史の中で、さまざまな教派が生まれてきました。でも、その源泉は同じ、イエス・キリストです。イエスを主とあがめる人々、イエスの福音に従って生きようとする人々は、イエスの腹心の弟子たちを中心に集い、そこに教会が生まれました。この腹心の弟子たちは「使徒」と呼ばれますが、使徒たちの教えに基づいて、教会はしだいに組織化されていきました。使徒たちの教えは書きとめられ、教会の中で朗読され、こうして新約聖書が生まれました。ここまでは、教派の違いはありません。つまり、「主は一人、信仰は一つ」(エフェソ4・5)です。

ときどきキリスト者たち自身、教派の違いにばかり目を奪われていて、このことを忘れがちなのですね。同じイエスを主と信じ、主の死を通じて罪の支配から解放され、主の復活を通じて神の生命を約束されているという、この信仰の本質的な点については、教派間に違いはありません。

それでは違いはどこから来るのかと言えば、それは長い時の流れの中で、民族や政治や文化の変化に伴って、しだいに違った形態に発展してきたのだ、と言ってよいでしょう。
聖書の理解のしかたでも、教義の表現のしかたでも、組織の形態でも、典礼や祭儀の形でも、さまざまな時代に、さまざまな民族が違ったふうに発展させたのは、むしろ当然のことだったかもしれません。

カトリック教会とプロテスタントの諸教会は、ともに主として西洋で発展したものですが、十六世紀の宗教改革を契機に分かれてきました。ローマ教皇を中心にして全世界に普遍的な教会組織を保とうとするのはローマ・カトリック教会ですが、中世のキリスト教化された西洋社会の中で富や権力と癒着したり、本来の福音の精神から逸脱したりした面も少なくありません。これに対して真の福音の精神に戻ろうと訴えたのが宗教改革者たちでした。彼らは教会の権威や教義などに束縛されないで、聖書に基づく自由で主体的な信仰を強調しました。ただ、その純粋な意図にもかかわらず、当時の政治や民族の抗争などが絡んで、結果的には不幸な教会分裂と混乱が生じてしまいました。プロテスタント教会はローマ・カトリック教会から離れた結果、相互に分裂を繰り返して、とうとう何千もの教派に分かれてしまいました。

そのようなわけで、カトリックとプロテスタントとはどう違うか、という質問に答えるのは、容易ではありません。プロテスタントと言っても、実にさまざまな教派があるからです。大ざっぱに言えば、カトリック教会がローマ教皇を中心に団結し、伝統を大切にしているのに対して、プロテスタント諸教会は直接に聖書を拠所にして、かなり自由に、それぞれの教会組織をつくっています。その結果、初めてキリスト教の教会を訪れる人にとっては、礼拝のしかたにせよ信仰の表現にせよ、教派によってまるで違う雰囲気をかもしだしています。

本来はキリストの教会は一つであるはずです。そして、世界に愛と和解をもたらすものであるはずです。その教会が、たくさんの教派に分裂して、しかも互いに憎みあっているとしたら、それは教会の本質にとって矛盾そのものです。そこで、現在では世界の各地で、キリスト者たちが教派を越えて一致しようという運動が起こっています。キリスト者たちが他の教派の伝統の中に自分たちの教派にないすばらしい価値を見いだし、互いに学ぶことができるとすれば、教派の違いはむしろキリスト教全体にとって豊かさだ、とも言えるでしょう。

52.西洋の歴史を学ぶと、キリスト教は平和をもたらすより、むしろ争いの種になっているのではありませんか。今でもアイルランドではカトリック教徒とプロテスタント教徒が争っていますが、これはなぜですか。

確かにキリスト教には、命懸けで自分の信念を貫くという、真剣な面がありますね。これが他神教と違う一神教の排他性から来るのだ、などと説明する人もいますが、私はそのようには考えていません。キリスト教は、三位一体論を見てもわかるように、いわゆる厳密な意味の一神教と違うかもしれません。そのような好戦的な姿勢は、宗教の教義よりも、むしろ、その宗教を担った民族の精神性によるのではないでしょうか。

アイルランドには、非常に複雑な歴史のいきさつがありますから、これをただカトリックとプロテスタントとの宗教戦争だと考えるのは短絡すぎるでしょう。最近の話題になっている日本と韓国との相互の国民感情の問題は、これと少し似ているかもしれません。過去の重荷から来る国民感情は、そう簡単に精算できるものではないですね。悲しいことです。これに経済的な要因や宗教的な要因が加われば、なおさら難しくなります。

いずれにせよイエス・キリストの福音から考えれば、キリスト教信仰を理由にして、考えかたの違う人々の間に争いや憎しみが起こるということは、あってはならないはずです。それは明らかに福音の精神に矛盾します。もし過去に、キリスト教信仰のゆえに戦争がなされたとすれば、それは誤った信仰の理解に基づくものです。人間の罪のわざにほかなりません。

世の中に争いが報じられるたびに、私はフランシスコのとなえた祈りを思いだします。これこそ、キリスト者の祈りであるはずだと思います。
 
「主よ、私を、あなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにはゆるしを、分裂のあるところには一致を、疑惑のあるところには信仰を、誤っているところには真理を、絶望のあるところには希望を、暗闇には光を、悲しみのあるところには喜びを、もたらすことができますように」。

53.イエス・キリストの教えには心ひかれるのですが、洗礼を受けるところまで踏ん切ることができません。洗礼は救いのために必要なのでしょうか。

洗礼が救いのために必要か、とお尋ねになるあなたは、はたして「洗礼」をどのようなものとして、また「救い」をどのようなものとして理解しておられるのでしょうか。まるで入学試験の合否判定の基準のように、ここまで必要かどうかというのでしたら、洗礼は必ずしも必要ではないでしょう。神は一人ひとりの人間の救いを望んでおられ、一人ひとりをそれぞれの仕方で導いておられますから、洗礼を受けない人も、キリスト教を知ることなく一生を終える人も、それぞれの仕方で神の導きにしたがって生きるかぎり、救われることに違いはないでしょう。問題は、神は自分にどのような導きを与えておられるのか、ということです。

キリスト教の福音は、教会を通して世界に伝えられます。でも、教会は世界中のすべての人間が洗礼を受けてキリスト者になることを目的にしているわけではありません。世界中の人に洗礼を授けることなど、しょせん無理です。すべての人間がキリスト者になることなど、世の終わりに至るまで、まずありません。そうではなく、キリストの教会は福音を通して世界が変革されることを目指しています。神のみことばがこの世に語られ、一人ひとりの人間と社会の全体を内から変えてくださることを願っています。
 
だから、一人ひとりの心に呼びかけるのは、その人をお造りになった神ご自身です。それは教会の福音宣教という手段を通してかもしれませんが、一人ひとりをそれぞれの仕方でお導きになる神ご自身が、その人に呼びかけておられます。そして、ある人にとっては、キリストに従って生きるということが、内心の強い促しになります。そして、この生きかたを人々の前で「信仰告白」という形で公にしたいと思うようになります。この人たちが洗礼を受け、キリスト者となって、「教会」という小さな群れを造ります。そして、世界の中で、神の救いのわざの道具として自分を差し出します。

だから、あまりあせらなくてもよい、と私は思います。ひょっとしたらあなたは、キリスト教の勉強をしているうちに、イエス・キリストから召されていると感じるようになるかもしれません。「あなたは私に従ってこないか、私と一緒に働かないか」と呼びかけられているように思うかもしれません。そして、その呼びかけに応えないと、いてもたってもいられない、それ以外に自分のしあわせはない、と考えるようになるかもしれません。
もし、そのような憧れを心にいだき、その憧れが日増しに大きくなっていくようなら、そのときはどうぞ洗礼を志願してください。

洗礼とは、キリストの死と復活にあずかって身も心もキリストのものとなること、古い人間に死んでキリストのいのちに生かされること、そしてこの生命の共同体、神の子らの交わりをいただくことです。それは、「ねばならない」義務ではなくて、特別の呼びかけであり、招きです。最低条件を満たすことではなくて、特別の恵みです。

ヨハネ福音書には、イエスがサマリアの女に出会って、彼女を信仰に導いた話が伝えられています。イエスは彼女に言います。「もしあなたが神の賜物を知っていたなら、あなたのほうからそれを願っただろう」(4・10参照)。もしあなたが、神のいのちこそ人間にとっての真の幸せであり、何ものにもかえがたい宝だと知ったなら、そしてキリストの招きがどれほどすばらしい恵みでありかを知ったなら、そのとき洗礼はあなたにとって「必要」となるでしょう。

54.洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。

家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。

あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。

もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。

確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。

隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みをお与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

55.イエス・キリストの教えには賛同しますが、教会には違和感を感じます。教会の中に飾られている像とか、そこで行われている祭儀とか、とても自分には入っていけない世界のように思われます。イエスの弟子となっても、教会の一員にはならない、という生き方が許されますか。

これは、私たちキリスト者にとって心苦しい問いですね。欧米の、いわゆるキリスト教国でさえ、近頃は特に若者たちの間で、「イエスには賛同するけれども、教会はいやだ」という人が、だんだん増えてきています。これはやはり、教会の組織や典礼や慣習があまりにも現代人の感覚からずれているからではないか、と私は思っています。そうだとすれば、教会はせっかくのイエス・キリストの招き、すべての人々にあてられた喜びのメッセージに妨げを置いているわけで、たいへん申しわけないことです。

でも、イエスが告げた「神の国」の福音のことを歴史的に学べば学ぶほど、それがただ単に一人ひとりの個人にあてた呼びかけではなく、むしろ「神の民」全体への呼びかけだったこと、人々を神の民として集めようとする招きであったことに気づきます。この辺りで私たちは、あまりに近代の個人主義的な精神性に侵されているのかもしれません。私たちはつい宗教とか信仰とかを、個人の心の問題のように考えがちです。しかし、イエスは何よりもまず、「神の民」を目指していました。「神の国」とは、「神の民」なしにはありえません。イエスによれば、人間の究極の救いとは人間が個人として、たった一人で救われる、というのではなく、神のいのちにある神の子らの交わりに迎え入れられる、ということです。人間の究極の救いとは愛の交わりに入ることであり、神の家族の一員となることです。神との交わりのみならず、神のいのちに生かされた兄弟たちの交わりでもあります。

イエスは弟子たちに、「互いに愛しあいなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34~35)と言い残しました。だから、神様とだけつながっている、あるいは、イエスとだけつながっている、という信仰は、本当は正しくないのです。確かに、どんなに回りの人たちに反対されても、自分は自分の信仰を貫くんだ、という事態もあるでしょう。世の友が自分を裏切るときにも、イエスのみが忠実な友であり、自分を支えてくれるんだ、という状況に直面するかもしれません。にもかかわらず、本質的には、生きた信仰を伝えるのは、信仰者の共同体をおいて他にありません。教会がなければ、私たちはイエスと出会うことができません。

教会の中でこそ、信仰が与えられ、育てられます。
教会は、弱い人間たちの集まりですから、そこには確かに福音の本質には関係のないような事柄も雑居しています。でも教会には、そのような欠陥を補ってあまりある、すばらしい宝ものがあります。イエス・キリストによってもたらされた「みことば」の真理と、「主の食事」によるいのちの分かちあいがあります。そこでキリストの弟子たちは、ぶどうの幹につながっている枝のように、キリストに結ばれると同時に互いに結ばれ、いのちの分かちあいの中で実を結びます。そのすばらしさを知ったなら、少々のことで信仰がぐらつくことはなくなるでしょう。

56.あるクリスチャンの友人から、「カトリック教会は聖書に忠実ではなく、聖書にないことも教義として教えている」と言われました。これは本当ですか。

ここには、いささか誤解があります。確かにカトリック教会には、長い伝統の中で作られた教義と呼ばれるものがあります。また権威をもってこの教義を守り、伝える役職があります。でも、このことはカトリック教会に限らず、多かれ少なかれ、どの教会にも必要なことです。教義とか、これを教える権威がないなら、教会も存在しません。まったく私的な信仰者のグループならいざ知らず、世界中に共通で、しかも時代を通じて一つでありつづけようとする教会には、正しい教えを誤謬から守り、そのつどの時代の必要に応じて解釈し、教会のメンバーを教え導く役職というものがなくてはなりません。これが「教導職」と呼ばれています。

そもそもイエス自身、弟子たちをあちこちに派遣したときに、「あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒む」(ルカ10・16)と言って、自分に代わる権威を弟子たちに与えました。そして、生まれたばかりの原始の教会でも、使徒たちの教えが土台となって、その上に信仰者の共同体が築かれました。新約聖書も、そのような教会の生活の中で書かれたものです。

キリストの教会が聖書の教えに忠実でなければならないことは、言うまでもありませんが、問題は、弱い人間がときとして聖書を自分勝手に解釈してしまいがちだ、というところにあります。聖書を大切にすると言いながら、その解釈のしかたが違うために、教派が分かれてしまうというような悲劇も生じます。だから聖書を正しく解釈するために、カトリック教会では、教会の伝統と、これに仕える教導職いうことを重んじます。生きた教会の伝統こそ、聖書を正しく解釈する場であると考えるのです。

これがカトリック教会の、伝統と教義についての理解です。教義とは聖書にないことを教えるものではなく、聖書の内容を解釈し、そのつどの時代の要求に応えて表現するものです。だから、二千年の歴史の中で、たくさんの教義が宣言されて、今では古めかしくて、現代人にはピンと来ない、というものも少なくありません。その全部が大切なわけでもないし、全部を知っていなければならないわけでもありません。そこで、教導職を担う人たちは、伝統の中で何が本質的な事柄であり、何が付随的、末端的な事柄であるかを判断し、これを現代人にわかる言葉で表現しなおして正しく伝えること、そして全世界のキリスト者が心を一つにして、一つの信仰を分かちあうことができるように教え導くこと、この責任を負っています。

57.しばらく教会に通っていましたが、人間関係のわずらわしさに足が遠のいています。神様の愛をよく知っているはずの信者が、なぜ陰で人のことを、とやかく言うのでしょう。

この質問を受けるのは、残念ながら初めてではありません。似たような嘆きや苦情を聞くたびに、「またか・・・」と溜め息が出ます。主イエスが弟子たちに言い残したのは、互いに愛しあうことでした。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34~35)と。だから、愛の共同体であるはずの教会で、互いの陰口とか中傷とかがなされ、その結果せっかくキリストの教えを学ぼうとしている人が来にくくなったり、教会の奉仕活動をしようとしている人の善意の芽が摘まれてしまったりするとすれば、それほど教会の本質にもとるものはありません。

他方では、教会もやはり罪びとの集まりです。ついつまらない噂話を交わしたり、陰口を叩いたりなどして、しかも、それがどんなに人を傷つけるか、ということに気づかないでいたりします。だからキリスト者は、たとえすべての人を愛するなどという高尚な理想にはほど遠いとしても、少なくとも人について良いことも悪いことも不必要に話さないこと、また人について聞いたことを鵜呑みにしないことを、最低限の原則としていなければなりません。ほんのわずかな毒が体全体を麻痺させてしまうように、何気なく言った噂が共同体の霊性を鈍らせ、汚し、低下させてしまうことがあるからです。

逆に、まんいち自分が人に陰口を叩かれていると知ったなら、それは信仰に成長するための良い機会だと思ってください。天国でないかぎり、この地上で人間の集まる所には、偏見や誤解などは避けられません。しかし、自分が人に悪く思われたり、言われたりしたならば、それは人々に辱められたキリストにならう絶好の機会です。それが事実に合っていない場合であっても、あえて弁解などしないほうがよい。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(マタイ5・12)と言われています。ロヨラの聖イグナチオは、より一層キリストに近くなるために(人のつまずきとならないかぎりですが)、自分としては名誉より侮辱を、尊敬されるより愚者とみなされることを望みました。さあ、そこまで英雄的になれないとしても、少々の陰口などにビクともしない、そのような強い信仰と愛に成長することができたらよいですね。

58.新しく赴任して来られた主任司祭に、どうしてもついていけません。教会を移ってもよいでしょうか。

実はこの質問も、しばしば耳にします。カトリック司祭として、私自身、このように言われて申しわけなく思うのですが、まだキリスト教の日の浅い日本の教会では、宣教師や教会を指導する神父たちの人柄とか性格が、良きにつけ悪しきにつけ、その教会に決定的な影響を及ぼすのは避けられないでしょう。たまたま善い司祭に出会ったから信仰に入ったとか、逆に主任司祭と気まずい関係になって教会から離れてしまったとか、そういう話は日常茶飯事です。

でも、ここでも私たちは、キリスト教の信仰がそもそも何であるかを思い起こさなければなりません。私たちがイエス・キリストを信じるのは、指導してくれる神父さんが素敵だからとか、よいお話をしてくださるからとか言うのではありません。確かに福音をもたらす人がいなければ、私たちは福音を聴くことができないでしょう。その人をとおして、私たちはキリストと出会います。福音をもたらす人は、いわば器です。器がよかったから中身を受入れた、ということも初めはあるでしょう。しかし、ひとたびキリストと出会ったならば、私たちの魂を引きつけるのは中身であるキリストであって、器として奉仕した神父さんの人柄は二の次になるはずです。

だから、神父さんと喧嘩したとか、新しい主任司祭と合わないとかいう経験があったなら、そのときこそ信仰が成長する機会だと考えてください。どんなに聖なる司祭にも弱さや限界があり、その人柄に合う人もいれば合わない人もいます。しかし、信仰はそのような人間的なレベルを越えて成長しなければなりません。

59.プロテスタントの牧師さんたちは結婚しているのに、なぜカトリックの神父さんたちは独身なのですか。

この問題には、長い歴史がからんでいます。司祭の独身制は司祭職の本質に基づくと言うよりは、むしろ伝統の中でしだいに必要性と価値が認められて、制度化されてきた、と言うべきでしょう。それは、決して結婚を悪いものとか、価値の低いものとかみなすことではありません。カトリック教会の伝統は、結婚を非常に尊重しますが、それにもかかわらず司祭の勤めのためには、独身制がより適していると判断しています。

実は独身制の是非については、特に現代では、さまざまに議論されています。独身のために司祭は夫婦や家庭の問題がわからないとか、情緒的に不安定であるとか、偏屈になりやすいとか、いろいろな欠点もあるでしょう。私の母は、家族の中で私だけが禿げているのは独身のせいで、やはりホルモンのバランスがうまくいかないのだ、と言っています。

それは冗談として、あえてそのような危険を犯しても、キリストの司祭となるために独身生活を選ぶという人間が大勢いるということは、現代世界の奇跡ではありませんか。 特に日本のようにキリスト者の少ない国で、教会は財政的にまだまだ脆弱です。独身だからこそ、司祭は自分の生活のことを顧みずに、勤めに励むことができます。もし自分の家族を養わなければならないとしたら、司祭の働きは教会員の献金に拘束されてしまうでしょう。お金持ちの信徒に対して厳しいことが言えなくなったり、損得をぬきにして貧しい人々のために尽くしたりすることが難しくなってしまうでしょう。司祭が自分の利益のためではなく、純粋にキリストと教会に身を捧げていることを示すために、独身制は目に見える証ではないでしょうか。

60.天使について教えてください。マリアに受胎を告げたり、羊飼いに主の誕生を知らせたり、聖書には天使がよく登場します。天使は本当にいるのですか。

子どもの頃からカトリック信者だった私には、天使の存在はごく自然に信じられるのですが、キリスト教のことを知らない方が初めて聞くと、おとぎ話のように感じられるかもしれませんね。

実は「天使」や「神の使い」の想像は、たぶんに民俗的な信心の所産で、キリスト教の信仰の本質にかかわるものではありません。宗教史的に言うと、天使の概念は比較的に後代になって、周辺世界の影響でイスラエルに入ってきたようです。それは神の救いのわざ、一人ひとりに対する神の導きを表現するものとして、擬人化された形で登場します。とりわけ黙示文学などでは、この世界が天使たちの軍団と悪魔たちの軍団との戦いの場として二元論的に描かれています。

イエスも当時のイスラエルの人々も、当然にそのような言葉や考え方に慣れ親しんでいました。だから新約聖書の叙述には、天使たちが神の働きの道具として、ごく自然に登場します。しかし、その叙述の意図は、あくまでも神の慈しみ深いはからいと導きを表現することです。

パウロはむしろ、当時のヘレニズム社会に流布していた宇宙を支配する霊力、権威、勢力(ローマ8・38、エフェソ1・21、コロサイ1・16など)の思想に対して、すべてがキリストのもとに服していることを強調しています。
教会の伝統の中で、天使についての理論が展開され、天使が人間よりすぐれた霊的な被造物として信じられたのは、時代の背景から見ると当然でした。しかし、教会の教義は一度も天使の本質を公に定義づけたことはありません。キリストによる救いというキリスト教信仰の真髄に比べれば、天使の想像や信心は付随的なものです。ただし、宗教とは合理の世界ではありません。天使の存在など信じなくてもキリスト教を信じることに差し障りはないでしょうが、そのような民俗的な信心をいっさい切り捨ててしまうなら、キリスト教は合理主義的な、味気のない宗教になってしまうでしょう。

 

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